コリント人への手紙第二 13章
=本章の内容=
❶キリストの十字架は弱さの故か❷どこに立脚しているのか➌結びの挨拶
=ポイント聖句=こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。 (13:3~4)
=黙想の記録=●12章でパウロは自らの経験から自分の使徒職を立証しました。偽教師たちはこれをパウロの弱さと言い張っていたのです。そこでパウロはこの章でキリストを引き合いに出し、偽教師の言う弱さの故にキリストは十字架で死んだのかどうかを問いただしました。彼らの論理で言えば、キリストの死は、悲惨で哀れな失敗した人生の結果となってしまうのです。でも十字架がなければ罪の赦しも永遠のいのちもあり得なかったのです。ではコリント教会の信徒たちはどこに立脚しているのでしょうか。偽教師が教えるこの世の基準でしょうか。この世での順風満帆で充実した人生にあるのでしょうか。それともパウロの様な艱難辛苦の中でも生き抜ける力なのでしょうか。神の力とはいったい何なのでしょうか。
●「完全な者となる」とは「完璧主義者になる」ことではありません。落ち度なく生きることではありません。また完璧に生きることが救いにはつながりません。また「神様に受け入れられた」のは私たちの完璧な人生の結果ではないのです。この世が「完璧な失敗した人生と見なしたキリストの生涯」こそ、神がこの受け入れ神の御心を完遂されるものでした。基督者の信仰の根拠はそこに立脚しています。この世に合って、私たちもまたキリスト同様に死んだ者なのです。この世と深い関係を持つことができないのです。キリストが神のいのちにあって甦ったように基督者も新しいいのちにあって生きるべきなのです。
●大商業都市コリントにあった教会は、偽預言者によって、救い主との関係が絶たれる寸前まで来ていた危うい教会でした。この二つの書簡でコリント教会の良心がようやく目覚めました。この気の遠くなるような、また滅入ってくるような信仰の修復作業をパウロは決して諦めなかった「真の牧会者」の様子がこの手紙から学ぶことができるでしょうか。
