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2024年8月26日

浅香廣昭

境家の教会主幹 浅香廣昭
はじめに
①礼拝に携えてくる物とは
■あなたが主日礼拝に出席するとき、何を携えていますか。礼拝ですから当然一人一人の捧げものを携え上る必要があります。礼拝は主イエスキリストを覚える日です。礼拝する日です。空手で参加するのは礼拝と言えるでしょうか?一週間神様のことイエス様のことを思いもせずに生活し、目新しいメッセージだけ聞きに教会に行くのでは、空手で礼拝に臨んでいるのと同じです。「会衆全員がそれぞれ捧げものをもって集まる」それが主日礼拝(プリマスブラザレンではパン裂き集会)なのです。
■では何を?それはあなたの一週間の黙想です。ユダヤ人が神殿で捧げていた「穀物の捧げ物」は小麦粉でもオリーブ油でも原型をとどめない磨り潰されてできたものです。同様に、「聖書から、祈りから、また実際の生活から、心も体も精神も磨り潰してまでも、教えられてきた物」をもって礼拝に臨むのです。「私はこんなことを一週間かけて教えていただきました。これもすべてあなたからの恵みです。これらについて感謝をもってあなたにお捧げします」
②聖書の学び方を学ぶ
■「聖書を学ぶ」ということは単に「聖書を読む」ということではありません。食事をするとき、耳から食物を入れますか。もちろん口に食物を運びます。「聖書を読む」行為は、耳ではなく口でするものなのです。つまり、よく噛んで、何度も噛んで、体の中に取り入れる行為です。それが「聖書を黙想する」ことなのです。あなたの一日の食事回数は何回ですか。おやつを除いて、2回または3回ですね。その食事をとる時、その都度、あなたはほかの人の手からスプーンで口に運んでもらっていますか。心身に障害がある方を除いては、その状態は普通ではありません。
■「私は教職者でないから、私は信じて日が浅いから、私は時間がないから」などの理由で聖書を日々学ばずに、日曜の朝、兄弟の新しいメッセージを聞いて満足しているだけなら、霊的な餓死状態のはずです。その状態を平然と続けているようなら、あなたはもともと新生していないのかもしれません。ところで、いつ頃から、自分で食事をできるようになりましたか。幼いころ、食事の最中に、いくら食べ散らかしたり、食べ汚したりしても、親はその都度激怒しますか。そういう短気な親もあるいはいるでしょう。でも長い目で見ると、「自分で食事ができるようになること」を親はとても喜んでいるはずです。同様に神様もあなたが自分自身で規則的に聖書を学ぶことを習慣化できることを喜んでおられるのです。
■本サイトが少しでもお役立てれば幸いです。

Posted by kerneltender