心の扉

SHC通信2023/12/30
若葉マークのキリスト教
お元気ですか。SHLのKernelTenderです。
今回のお話のタイトルは「心の扉」です。
①笑い話になってしまいますが、焦ってトイレのドアを開けようとしたらなかなか開かなかったという経験ありませんか。その理由は公共施設やデパートなどの商用施設ではトイレのドアは内開きで自宅では外開きが一般的だからです。トイレや玄関ドアに限らず、扉には内開きと外開きがあります。海外の一般住宅の玄関ドアはほぼ内開きです。海外の映画やドラマを思い出してみてください。FBI捜査員による突入シーン。内開きのドアを蹴破って入っていきますね。内開きドアの場合、家具など重い物を玄関ドアの前に置けば押し入ってくる侵入者を阻止することが可能なのです。ところが韓国や日本では外開きのドアが多いのです。これは玄関で靴を脱いで家に入るという習慣があるため、内開きだと脱いだ靴などがぐちゃぐちゃになるからなのです。
②ところで「心をひらく・心をとざす」という言葉があることから、人の心にも扉が存在するようですね。心の扉が外開きか内開きかはわかりません。でも他人が勝手に開けられない様ドアノブ(取っ手)は外側にはありません。また鍵は内鍵で外部の人が勝手に開けられないよう施錠していますね。「心の扉」のことについてうってつけの物語が聖書に掲載されています。それは新約聖書中の「サマリアの女」と題される物語です。以下は「サマリアの女(ヨハネの福音書4章)」の物語を私なりに解説したものです。
③イエス様と弟子たちは、ユダヤからガリラヤに向かう途中、サマリア地方のスカルという町のはずれに来ていました。弟子たちは食料を買いに出ていき、旅に疲れたイエス様がひとりで井戸のそばに座っていました、炎天下の昼12時ごろでした。一人のサマリアの女性が水をくみに来ました。この時間に水を汲みに来るのは尋常ではありません。いわくある女性のようでした。くむものを持たないイエス様は彼女に「水を飲ませてください」と言葉を掛けました。この言葉に女性は大変驚きます。それは当時男性から女性に直接声をかけることなどありえなかったのです。さらに宗教上の理由からユダヤ人とサマリア人には交流がなかったのです。
④彼女は不思議に思いましたが、ユダヤ人に卑屈な態度は見せられませんから、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と返答します。この時の彼女の心の扉はまだ固く閉ざされている状態です。するとイエスは、「あなたが神の賜物のことを知っていて、また、水を飲ませてほしいと言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出ただろうし、また、その人はあなたに生ける水を与えたことであろう。」と話を続けるのです。「神の賜物?」「生ける水?」「ちょっと待ってよ、なんなのこの男は?」イエス様から理解不能な言葉が次々と出てくるのです。
⑤しかしユダヤ人に敵愾心さへ持つ彼女はここでひるむことはできません。そこで、この井戸のありがたい由来を語り、ユダヤ人が飲める水ではないことを主張するのです。「生ける水を与える」の言葉が引っ掛かったので、「その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。」と尋ねてみます。彼女にとって水は目の前にあるこの井戸から手に入れるだけなのです。ほかの方法があるとでも言ってくるのでしょうか?ところが「この(井戸の)水を飲む者は、だれでもまた渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者だれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と、イエス様からまたもや理解不能な言葉が飛び出すのです。彼女はドアののぞき穴から外を監視する程度でまだ開いていません。
⑥早くこの場をやり過ごしたい、また、こんな訳の分からないお説教を聞くのはまっぴら御免です。話の主導権を取ろうとして彼女はこう言います。「そんな水があるならば、もうここまで汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」こんな男に関わっている暇はないのです。さっさと水を汲んで家に戻りたいのです。ところがイエス様から飛び出した次の言葉は全く思いもよらないものでした。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」驚天動地とはこのことです。彼女にとっては一番触れられたくない家庭の事情に踏み込もうとされたのです。「私には夫はありません。」彼女は小声でぼそっと返答しました。イエスはさらにこう付け加えるのです。「私には夫がないというのは、もっともです。 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」そう、彼女は六回も夫が変わっているのです。最後の男性は正式な婚姻関係にはなかったのです。ユダヤ教では婚姻関係のない男女の同棲は姦淫の罪として厳罰に処せられ、場合によっては石打の刑で死罪となるのです。イエス様の「今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない。」との言葉は彼女にとって断罪されたのも同然だったのです。自分を死罪にしようと来た役人かもしれない。彼女は震えあがっていたのです。この時彼女の心の扉は激しくノックされていたのです。
⑦さて炎天下の砂漠地域にあるオアシスへ、普通なら朝や夕べの涼しいうちに汲みにきて当然なのですが、このサマリアの女性は真昼間に水を汲みに来なければならなかったのです。これはまさに世をはばかって生活しなければならない状況を表しています。彼女は結婚生活に関して特殊事情を抱えていたのです。何人もの男性に求婚されたことが予想されます。男性がほっておけないほどの美貌の持ち主だったのでしょう。しかし、理由は分かりませんが、一回一回の結婚生活はどうも長続きしなかった様です。彼女の外見だけを見ていた男性に彼女に対する飽きがきたのか。あるいは男性の極端な支配欲求に女性がついていけなかったのかもしれません。あるいはのまたは女性側の問題かもしれません。ところが、頼みにしていた「外見の美貌」は結婚の回数に反比例してその価値を下げてしまっていました。サマリヤの女性にとって「甘美な結婚生活」こそが「幸せの水脈」だったのです。しかし何度状況を変えても、彼女はその水脈に辿り着けなかったのです。他人からうらやましがられる結婚生活が、かえって「女としてのプライド」を作り出し、今度はそれが硬い岩盤となって、幸せへの水脈を覆っている。彼女にとって「人生は自分で切り開くもの。幸福の水脈は自分で探し当てるもの。自分の力でうまく世の中をわたっていけるもの」でした。「あなたの夫ではない」という言葉からは、下世話な考え方ですが、正式な結婚を申し出ても受け付けてもらえないため愛人として扶養してもらわなければならい状態だったかもしれません。最初の頃は他の女性の羨望の的だったのが、結婚の回数が増えるごとに、軽蔑の対象になっていったことは容易に想像できるのです。このように世をはばかって生活するということは孤独を強いられることになるのです。心の扉の施錠はいよいよ増える一方です。
⑧話を戻しましょう。イエス様の言葉で彼女は逃げ場を失いました。自分のすべてを言い当てるこの人物はいったい何者なのか。彼女は改めてイエスに向き直します。隠そうと懸命になっていた人生の裏の面まで、知り尽くしているとすれば、それは超自然的なことで、人間業とは思えないのです。そこで彼女は改めてイエス様の顔をドアの隙間から覗くようにして見るのです。ところがそこには慈愛に満ちた笑顔はあっても自分を断罪に来た攻撃的な役人のまなざしは一かけらもなかったのです。この時こそ彼女の心の扉の施錠が解かれた瞬間です。そこで彼女は急に昔の物語「エリヤとやもめ」のことを思い出すのです。大飢饉の最中、大預言者エリヤが、餓死寸前だったやもめとその子供を奇跡を起こして救ったという物語です。でもそれはあくまでも物語。そんなことを引き合いに出したら笑われると思いながらも彼女は、「あなたはあの預言者ですか。それともメシヤですか」と問いただすのです。この預言者とはユダヤ人とサマリヤ人の同祖であるモーセが預言した「やがて来臨するメシヤ」を指すのです。するとイエスは「信じなさい」と言ってくるのです。「じゃあ何を?」の心の声にイエスは「私がメシヤだ」と答えるのです。「そんな馬鹿な。でも」彼女の心の中で何度も繰り返えされた言葉でした。
この物語にはまだ続きがあるのですが、彼女はこの後、なんの奇跡を見ることもなく、目の前の人物こそ「人となられた神、本物の救い主だ」と悟ることになります。残念ながら私たち日本人には自分とって都合の良い「八百万(やおよろず)の神」は存在しても、ユダヤ人の様に心の扉を開くまで扉をたたき続ける人格的な「メシヤ=救い主」という存在はありません。また人生の悲劇は私達を慈しむ神(救い主)を心に迎え入れないことが最大原因であることに気付くことがないことです。
科学者にして哲学者のパスカルは「人間の心には大きな空洞がある。それは創造主である神しか埋めることができない。」と言っています。私達は神様抜きでこの巨大な心の空洞を埋めようとしてきたのです。多くの場合この女性の様にそれは徒労で終わってしまうのです。
私の全てを知り尽くし、私に最善の生き方を示して下さる方。また私をけっして一人ぼっちにしない方。私の人生を私と一緒に歩んでくださる方。それがここに登場するイエス様その方なのです。この女性の様に、多くの場合、その出会いは「最低の人生」「ドン底の人生」であるかもしれません。あなたはこの方に出会いましたか?
新約聖書 ヨハネの黙示録3章20節