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因果応報

2024年7月6日

SHC通信2024/08/30
若葉マークのキリスト教
お元気ですか。SHLのKernelTenderです。
今回のお話のタイトルは「因果応報」です。

●「私の人生には不幸なことが一度もなかった」と言う方は、極まれにはいるかもしれませんね。でも、少なくとも、私にもあなたにも、人生に様々な出来事があったのではありませんか。交通事故、病気、心身の障害、死別、失職、倒産、失恋、離婚、不合格、落第、左遷、降格、困窮などなど、思い出したくも無い嫌な出来事を何度も何度も体験してきた方もいらっしゃるでしょうね。こうした出来事の数々を人は「不幸」「不運」と名付けてしまいますね。仏教寺院が77000軒もある日本では、こうした不幸や不運の原因を仏教用語の「因果応報」という結論に結びつけてしまうことがとても多いのです。
●高校進学後クラスになじめなかったことが原因で不登校になり、とうとう家から一歩も出ない「引きこもり」状態になった女子生徒がいました。彼女のお父様と話す機会がありました。ご両親はお二人とも自ら学習塾を運営するほど教育熱心な方々です。その学習塾の窓ガラスには有名大学への合格者数が掲示されています。ご自分の娘に対する両親の過度な期待が彼女の心を押しつぶしてしまったのでは?と容易に想像できるのです。自室に閉じこもってしまった娘さんは、徐々に心が荒れてきて、両親に向かって乱暴な言葉を投げかけたり、さらには家具を投げつけたりしてきたそうです。両親は引きこもりの問題に関する専門家にも相談しましたが、解決に至らなかったそうです。そこで、いつのまにか、ある新興宗教の本を読み漁るようになり、また新興宗教の学習会にも参加するようになると「自分の持っている因果が娘の引きこもりという不幸を生み出す原因になっている」と結論付けてしまうのです。「前世の自分」や「自分の先祖」がしてきた悪い行いが娘に祟ったというのです。そこで両親がとった行動は、先祖を供養し次に霊能者の浄霊や祈祷、あるいは自ら修行を受けてきたとのことです。その結果、「まず自分たちの心が落ちつき始め、結果娘の状態が次第に落ち着くようになった。」と言うのです。私は聞いていて、ふとあることに気がついたのです。「娘さんを追い込んだのも娘さんが落ち着いてきたのも、実は目の前にいるこの人が根本要因だったのではないか。この方の不幸の元凶は因果応報などではなく、娘に対する両親の心の持ち方だった」と思えてなりませんでした。
●さらに、自分のことで話がひと段落すると、今度は我が家にいる心身障害の息子のことにも及んできました。この方はこう言うのです。「あなたの家に起こっている不幸もやはり因果応報でしょう。」ひとしきり、その方が解く我が家の不幸の原因を聞いていたのですが、我慢ができなくなり私はその方の話を制し、語気を強めてこんな風に言ってしまいました。「子や孫に不幸をもたらそうとする親や祖父母がどの世界にいるのですか。そんな先祖は僕の先祖なんかじゃありませんよ!」「私たち夫婦に、障害者の息子がいることを、私たちは不幸だなどとこれっぽっちも思っていませんよ。私たちにとって息子は宝ですから。」と。仕事の都合からそれ以上つっこんだ話ができずに、またいつか話をしましょうと言って別れました。
●大変残念なことですが、私たち日本人が持つ、宗教観はおよそこんな感じなのです。
第一に、根拠の無い因果の法則に縛られているのです。
第二に、不幸不運の原因を他者や置かれた環境に責任転嫁しているのです。
第三に、往々にして、自分自身が不幸の源になっていることに気づいていないのです。
●新約聖書の中に、障害者を持った私たち夫婦がとても安堵できる聖書の箇所があります。最下段に掲載しましたのでまずご一読ください。・・・お読みになった感じはいかがでしたか?この物語を読んだとき私は盲人が見えるようになる奇跡の場面よりもっと驚いた場面があります。それは彼を取り巻く弟子達の言動の部分です。イエス様の弟子は盲目の男性がその場所にいるにも拘わらず「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」などと言って因果応報の考えを当たり前の事実の様に冷たく言い放った時の場面です。時空を超えてもまた異なる文化文明であっても因果応報という考え方は時代や人種に関係なく存在していたのですね。
●この物語の中で弟子たちの冷たい質問に対しイエス様は次の様に答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。」つまり「人の不幸は因果応報によるものではない」と、この考え方をきっぱりと否定されています。では、因果応報でなければこうした困難はなぜ起きるのでしょうか。イエス様が続けてこんな謎めいたことを言われるのです。「神のわざが現れるためです。」聖書と縁もゆかりもない日本人にとってまるで理解不能な言葉です。しかし当時のユダヤ人にとって「神のわざ」と言えば「天地創造」を意味し「神が人をご自身のかたちとして創造された」という旧約聖書創世記の一文をすぐに思い浮かべることができるのです。ところで創世記のこの個所にある「ご自身のかたち」とはなんでしょうか。それは人間が単なる「物体としての人」だけの存在ではないことを意味しています。当然心も魂も含まれているのです。
●創世記冒頭に最初の人アダムとエバがエデン(神の国)から追放される記事が出てきますね。しかし見方を変えると彼らが自分の魂からエデンを追放してしまったとも言えるのです。彼らの養育者である父なる神様の慈愛の手を拒み、自分の力で人生を歩む選択をしてしまったからです。俺の人生は俺の物、好き勝手に生きて良いだろうという選択だったのです。しかし数秒先の未来も予測できない人間。欲望にすぐに傾きやすい人間。孤独に耐えられない人間。こんな不安定な人間に人生をまかせられるのでしょうか。ですから困難に出会った時、人間は希望や期待が断たれる思い込むのです。落胆したり後悔したり絶望したりするのです。そしてそこから脱出できないと分かると置かれた環境を呪ったり他人に責任転嫁するようになってしまうのです。あるいは宗教などのこの世の力を借りて心を麻痺させようとするのです。しかしこれらの困難に出会うことは自分の魂が異常な状態であることを気づかせる時でもあるのです。
●人間はもう一度生まれ変わる、つまり神様との関係を再生しない限り正常な魂となりません。この魂の再生こそイエス様が言われた「神のわざが現れるため」の内容だったのです。
●私たちクリスチャンに「不幸や不運」と言う言葉は存在しません。また「無意味な出来事無駄な出来事」も存在しません。なぜなら、これらの不幸不運と思われる出来事は神様が用意された「新たな魂の創造」または「魂の成長」の時と位置づけているからです。この貴重な瞬間を通り過ぎることなしに、「神様が与えてくださった人生の意味や意義」を見つけることはできません。
●あなたは、今、根拠の無い因果応報の法則に縛られていませんか?訪れる困難の原因を他者や環境に責任転嫁していませんか?イエス様が与えて下さる「新たな魂の創造」または「魂の成長」を経験してみませんか。

聖書から抜粋
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
新約聖書 ヨハネの福音者 9章1~3節