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ローマ人への手紙11章

ローマ人への手紙 11章
=本章の内容=

❶かたくなになったイスラエル❷イスラエルの違反行為が異邦人への救いとなる➌イスラエルの回復はある

=ポイント聖句=

なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです、ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。 (11:32~33)

=黙想の記録=

●ベニヤミンはヤコブの末子でした。ベニヤミン族として、エフデ(士師記3章)、サウル(Ⅱサムエル9章)、ヨナタン(Ⅰサムエル13章)、モルデカイ(エステル2章)など特徴ある人物が登場してきます。ところが士師記20章以降の記事では、忌まわしい事件を引き起こしたために、全イスラエルから根絶されそうになりけたという不名誉な部族でもあります。パウロは純粋なユダヤ人の血を継ぐものではありましたが、誇れるような部族とは言い難いところがあります。この部族に象徴されるように、主なる神は、根絶やしにされても当然なイスラエル人をそのつまずきに応じて罰することをしていない事実をパウロは説明しています。メシヤであるイエス様を殺してしまったのもイスラエル人です。
●こんな不名誉なことしか論(あげつら)うことのできない民族でも、主なる神は確かに選ばれ大事にされてきたのです。そしてこの民族が霊的に復活を遂げる日が「異邦人の完成のなる時」だと、イスラエル人に対する神の大きな配慮が最後まであることを、パウロは付け加えています。このように「救済」は主なる神の一方的な「あわれみ」によるのであって、血統や実績(人間の努力)ではないのです。
●基督者もこの世の人と同様に、血筋や経歴という表面的なことをもって、他人や自分を評価してしまう傾向がないでしょうか。「〇〇学校卒業」「○○勤務」「〇〇の子」「○○の才能がある」など。あるいは逆に「△△学校しか出ていない」「△△の様なところ働いている」「△△の子だ」「何のとりえもない」など。こんな物差しで人を見ている様では、「競走馬の品定め」をしているのと同じなのです。パウロ同様、私たち基督者は「神の視点」で「他人も自分も眺める」必要があるのです。では「神の視点」とはなんでしょうか