ローマ人への手紙9章

ローマ人への手紙 9章
=本章の内容=
❶イスラエルとは何者か❷人とは何者か
=ポイント聖句=ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。 (9:22・23)
=黙想の記録=●本章では「器」という目に見える物を使って、人間を表現しています。器の価値は「素材」にもありますが、陶器を製作する「作者」で決まります。また「長い年月」がその価値を決める場合もあります。門外漢の人間には、「何の変哲もないどちらかと言えば粗末な器」に見えもる器でも、見る人が見れば、莫大な価値があるのです。素人が「きれい。凝っている。」と見える茶器でも、専門家の目にかかれば、「贋作であり」「価値の低い物」とも見抜かれてしまうのです。ここで出てくる「器」の種類は「尊いことに用いる器」「つまらないことに用いる器」「滅ぼされるべき怒りの器」「あわれみの器」と書かれています。イスラエルは「素材・長い年月」では際立ったものがありますが、「作者」の点で言えば、途中で、贋作ばかり作る者つまり偶像に身を委ね、元々の価値を台無しにしてしまったのです。イスラエルは民族の歴史を通して主の栄光を表すための「尊いことに用いる器」でした。しかし、主に対する信仰をその容器に満たそうとはせず、この世の快適さや欲望で一杯にし、「つまらないことに用いる器」つまり器の価値を台無しにしてしまったのです。
●基督者も「見栄え、見かけ」で人生の価値を決めてしまうことがあります。簡単に言えば「何かを持っている・何かができる・何かを知っている・何かを経験してきた」のことです。しかも、その基督者を値踏みしているのが、「他者と比較ばかりしている弱く不健全な自分」であり、「何の力のない素人」であり、「常に価値を下げようと企てている悪魔」であることが分からないのです。器の中に信仰を満たしているなら、それだけで私たちの人生は価値があるのです。