ローマ人への手紙4章
ローマ人への手紙 4章
=本章の内容=
❶行い・儀式(割礼)などの律法によらない義❷信仰による義
=ポイント聖句=もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。(4:2)主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(4:25)
=黙想の記録=●「義」とは何かを調べてみると儒教では「正しい行いを守ること」「欲望と反対のことを追及する心」であり、仏教には「義」という概念はなく敢えて言うなら同じ仏教徒同士が血縁地縁を超えて救済しあう事業をさしています。いずれも倫理としての正しい行いを表現する言葉の様に思えます(間違えていたらごめんなさい)。ここには「永遠の魂の存在」や「人間を想像された神との関連性」は微塵もありません。
●ここで使われている「義」はギリシャ語で「ディカイアオゥ(正義・正しい)本章に2回」「ディカイアスネ(正義・美徳・純粋)本章に8回」「ディカイアスィス(神に受け入れられる条件)本章の22節のみ」の三つです。「ディカイアスネ」の方は「ロギーゾマイ(数えられる・認められる・決定される)」と一緒に使われていることが多い言葉です。
●アブラハムはユダヤ人の血肉上の父祖ではありますが、信仰の父という点では全世界の人々にとって、該当しているとパウロは説明します。他の民族と異なり、ユダヤ人は創造主を知っています。ですが、この世での畏敬の対象で、この神からの災いを回避するためには、正しい行いが必須であるとだけ、信じていたようです。パウロはこのユダヤ人が考える「正しい行い」は、神が認める義の基準に到底達していないとばかりに、単なる「誇り」という言葉で、あっさりと切り落としています。「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じる」ことだけが、神に受け入れられる唯一の方法であるとパウロはまとめています。
●3章からの続きですが基督者の「選民意識」は、人間同士の比較対照の産物であり、そこに「愛」など欠片も存在しません。簡単に言えば「私はこんなことを知っている」「私はこんなことをしてきた」と自慢したがる基督者のかかりやすい病気なのです。次の魂への予防注射が必要です。
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(1ヨハネ4:21)