ローマ人への手紙2章
ローマ人への手紙 2章
=本章の内容=
❶他人を裁く人よ❷自分をユダヤ人ととなえる者
=ポイント聖句=私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。(2:16)
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(2:29)
■1章でパウロは神の裁きを当然受ける人間の真の姿を描写し、この2章では神の裁きの存在を知りながらそれをないがしろにする人々について書いています。16節でパウロは「私の福音(Gムー・ユワンゲリアン)」という特別な言い方をしています。ところがここでの福音の使い方は十字架の救いのことは語られず「神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる」と強調しています。これは主から与えられた律法を遵守してきたユダヤ人。しかし、その律法から主の真意を汲みとれなかったユダヤ人に対するむき出しの怒りの姿が見えるのです。しかし、この言葉の背景には、彼らと同じ過ちを犯し、己を義とし、主をないがしろにしてきた、愚かな自分を振り払おうとする姿も見て取れるのです。律法に対する熱心さが、そのまま主への熱心さと勘違いしてきたのです。ローマ書全章を読むとき、パウロはこの大きな過ちを一つ一つ思い出し、過去の自分に決別してきた過程を事細かに述懐しているように思えてなりませんでした。
■「人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり」の言葉に、基督者を迫害し意気揚々とエルサレムに戻った時の自分の様子。これ見よがしに自分の成果をひけらかす愚かで哀れなユダヤ人の自分。この裸の王様の自分を見ているのです。
★基督者の成長は、過去の自分との決別にあります。過去の自分を見つめなおすことはとても辛いことです。しかし、「この醜悪な自分を主が清めてくださる過程もまた信仰の姿だ」と認めることが決別にどうしても必要なのです。時々ふっと過去の自分を思い出すことはありませんか。とても恥ずかしくなったり辛く感じたりしませんか。何で今頃こんな気分になるんだといぶかしがることがありませんか。それは「まだ清められていないぞ」という神様のシグナルかもしれません。