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詩篇第一巻 第40篇

詩篇第一巻 第40篇
=本章の内容=

宗教儀式に頼らず

=ポイント聖句=

6,あなたはいけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたはお求めになりませんでした

置かれた状況

「2,滅びの穴から泥沼から主は私を引き上げてくださった。私の足を巌に立たせ私の歩みを確かにされた。」とあるところから40篇も38篇・39篇と続く人口調査という大罪を犯した後の悔い改めの詩であると思われる。

祈りの内容

13,主よみこころによって私を救い出してください。主よ急いで私を助けてください。
14,私のいのちを求め滅ぼそうとする者たちがことごとく恥を見辱められますように。私のわざわいを喜ぶ者たちが退き卑しめられますように。
15,私を「あはは」とあざ笑う者どもが自らの恥に啞然としますように。
16,あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「主は大いなる方」といつも言いますように。
17,私は苦しむ者貧しい者です。主が私を顧みてくださいますように。あなたは私の助け私を救い出す方。わが神よ遅れないでください。

祈りの確信 =黙想の記録=

●詩篇40篇を詩篇38・39篇の続編と考えた場合、前2編の状況からするとかなり好転している雰囲気が感じられる。人は試練と思われる事態を通り過ぎると、ついつい慢心が出て試練の目的が何であったかを忘れ去ってしまう。またこの試練をともに歩んでくださったかまたいかにして乗り越えさせてくださったかを思い出そうとすらしなくなる。ダビデはこれらのことを失念することがなかった。いや失念してはいけないと自戒しているかのようだ。
●「1. 主は私に耳を傾け助けを求める叫びを聞いてくださった。」「2,滅びの穴から泥沼から主は私を引き上げてくださった。」の言葉はダビデの主なる神様への自分の叫びが確実に届いていたという確信にあふれている。詩篇39篇の文末にはその確信が見当たらなかったが。
●「6,あなたはいけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたはお求めになりませんでした。」は今回の試練を経てダビデが悟ることのできた重要事項だ。試練が襲ってきたとき、一般的には宗教儀式に頼ろうとする傾向がある。ダビデの時はそれは祭司の手を借りたおびただしい捧げものであった。サムエル第一13:8~14にあるサウル王の失敗はダビデの教訓となっているようだ。サウルにとって希望の星であったサムエルの来訪が遅延していた。サウルの心は泡立ち待ちきれずに自分で宗教儀式を行ってしまったのだ。これを基督者に適応するとどうなるだろう。教会出席、献金、断食、感情を込めた人前での祈り、トランス状態になるまで祈り続けることなどがあげられるだろう。こうした宗教儀式に没入することでこれだけの犠牲を払うのだから神様が顧みて下さらないはずがないという思い込みをする。いやこれは神様への思い上がりに過ぎない。肉なる人は神様の特別扱いがあるまで待ちきれないのだ。
●「7-8,そのとき私は申し上げました。「今私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」はへブル10:1~18にあるキリストのただ一度の犠牲を預言したものだ。ゆえにダビデはイエス様のあの境地にまで達することができていた。つまり、ダビデの救いの確信は宗教儀式を積むことにはなく、第一に「王として油注ぎをくださったのは外ならぬ主なる神様そのものである」第二に「疫病は人口調査という大罪を犯した神様の期間限定的の裁きである」ということを認めたところに終始するのだった。また終わりのない試練はないとダビデは悟ることができたのだ。
●「16-17,あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「主は大いなる方」といつも言いますように。私は苦しむ者貧しい者です。主が私を顧みてくださいますように。あなたは私の助け私を救い出す方。わが神よ遅れないでください。」の最後の言葉はダビデの自信に溢れているように感じられる。「慕い求める人」「苦しむ貧しい者」はダビデ自身のことだが罪を悔い改めた後の清々しさを感じさせる。

=注目語句=