詩篇第一巻 第15篇
詩篇第一巻 第15篇
=本章の内容=
全き者とは
=ポイント聖句=全き者として歩み義を行い心の中の真実を語る人。(15:2)
置かれた状況 祈りの内容 祈りの確信 =黙想の記録=●「だれがあなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれがあなたの聖なる山に住むのでしょうか。(15:1)」とある。「神の幕屋・聖なる山」は共に主なる神の臨在があるところ。神の栄光に満ちたそんな場所に人が存在できるのだろうか。神の栄光を見る者は死をまぬかれない。ところが「神の栄光にあずかる希望(ローマ5:2)」とパウロは基督者の特権を述べているoまたイエス様ご自身がラザロの蘇生の際「信じるなら神の栄光を見る。(ヨハネ11:40)」と述べておられる。このことから、神の栄光とは殺傷能力のある殺人光線のことではないことが理解できる。
●全き者の行いが次の様に列記されている
義を行い心の中の真実を語る(15:2)
他者を誹謗中傷しない(15:3)
主を恐れる者を尊敬する(15:4)
誓いを守る(15:4)
金銭に対して潔癖である(15:5)
●神の臨在される場所にいられる者は「全き者」と書かれているが、イエス様以外にそれを経験できるものはいないのではないか?ところが上記のリストを眺めると「全き者」の基準はかなり低い。この程度の者をもって全き者と言えるのだろうか。
●発想を逆にして考えてみた。「神の臨在を経験できる人」こそが「全き者として歩むことができる」と言い換えられないだろうか。日々「神の臨在の浴する人」こそが毎日の行動に神の聖さが伴うとも言える。こうした意味で言うなら日々のデボーションを習慣化できている基督者、また問題が起きた時に祈りをもって臨める基督者は神の栄光をまき散らすことができるとは言えないだろうか。