詩篇第一巻 第6篇
詩篇第一巻 第6篇
※詩篇第6篇は、32、38、51、102、130、143篇とともに、「七つの悔い改めの詩篇」と呼ばれ、交読詩篇として利用する教会もあるようです。
=本章の内容=
良心を利用する悪魔の存在
=ポイント聖句=主は私の切なる願いを聞き主は私の祈りを受け入れられる(6:9)
置かれた状況 祈りの内容・主よ御怒りで私を責めないでください
・あなたの憤りで私を懲らしめないでください。
・主よ私をあわれんでください。
・主よ帰って来て私のたましいを助け出してください。私を救ってください
・私の敵がみな恥を見ひどく恐れおののきますように。彼らが退き恥を見ますように。瞬く間に。
主は私の切なる願いを聞き主は私の祈りを受け入れられる
=黙想の記録=●勇猛果敢なダビデのこのみじめな吐露が公式の場で吟じられるとはとても信じがたい。果たしてどんなシチュエーションで用いられるのであろう。悔し涙を流すほどの状況とはいったい何だろう。人にではなく神に許しを請う言葉がいくつもあることから察するに恐らくダビデが何らかの隠しようのない罪を犯したことがこの告白を産み出したと思われる。その罪はダビデの周囲の人々にも知られ後ろ指を指され揶揄されていたのだろう。「主よ御怒りで私を責めないでください。あなたの憤りで私を懲らしめないでください。」とあるところから、罪を犯した後に起こる不幸な出来事があたかも神様からの懲罰のように思えたのだろう。それにしても「彼らが退き恥を見ますように」などと言っているが、揶揄する原因を造ったのは本人。逆恨みのような気がする。こんな愚痴をこぼすような悔い改めを神様は受け入れてくださったのだろうか。
●「主よあなたはいつまで──。」とダビデは主の救いの遅延を嘆いているが、私も同様の思いを抱くことが多々ある。この思いが募ると「私は嘆きで疲れ果て」「私の目は苦悶で衰え私のすべての敵のゆえに弱まりました」の言葉の様に体にも変調が現れる。
●「敵」とはだれかと探ってみたくなる。しかし、考えてみると一番の敵はダビデ自身の心ではないだろうか。人の心にはいつも相反する二つの人格があるように思える。自分自身を「責める心」とそれに「怯えている心」責めるのは良心ともいえるが、必要以上に自分を責めてくるのはその良心を増幅して立ち上がらなくさせている他の存在があるからだ。それが悪魔である。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(1ペテ5:8)とあるように悪魔は常に私の心の近くをうろついているからだ。悪魔に私の良心を利用されてはいけない。
●しかしダビデはいつまでも気落ちしていない、「主は私の切なる願いを聞き主は私の祈りを受け入れられる。」の確信ある言葉で自らを奮い立たせている。この確信が良心を利用してくる悪魔の攻撃に終止符を打つことができる。この確信を抱かせる存在こそが聖霊である。こうした意味で考えると10節の敵とは悪魔ということになる。
語句①敵(英語)enemies(ヘブル語)אֹיֵבアイェーブ・・・残念ながらこの時の敵が具体的には誰であるかを見つけることができない。あるいは敵はダビデ自身、彼の良心ではなかろうか。