ダビデのビフォー&アフター

2024年6月29日

なるほどTheBible2022/09/18
=ダビデのビフォー&アフター=
詩篇18篇も詩篇51篇もどちらもダビデに関するものです。
【参照聖句】
①私は主の前に全き者。自分の咎から身を守ります。詩篇 18篇23節
②まことに私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。詩篇 51篇3節
💙詩篇18篇は実に自信に満ち溢れた躍動感を感じさせますが、詩篇51篇の方は暗さを残した後ろめたさを覚えさせますね。
💚詩篇18篇はサウルの手から救い出された直後のもので、詩篇51篇はバテシェバと通じ姦通、殺人を犯し、誤魔化し続けたものの預言者ナタンに暴露されてしまった直後のものです。前者は自分のことを「全き者」と言ってのけていますが、後者はこうした「称号」すら使うことができません。
💙総じて言えることは、人間は有頂天になっていると自分を格付けしたがる生き物、肩書きを付けたがる生き物など、兎も角自分を美化したがる生き物なのです。ところがその慢心が継続すると心の何処かが麻痺して、犯した罪さへ正当化してしまい、更に大罪を犯すルーティンを生み出してしまう生き物でもあるのです。
💙また、人生の絶頂期を過ぎたと感じ始めたとき、人は肩書きばかりを吹聴し固執し始める生き物でもあるのです。
💙記録や記憶に残る実績を上げている人ほどこの道を辿り易いものです。
💙有頂天を経験した基督者は神を賛美している振りをしながら、実は神様を自分より下にしていることが多いものなのです。残念ながらそれに気づくことなく、その態度が人生末期まで続く様です。
💚逆にどん底に突き落とされた経験をした直後、また小さな人生の失速を経験し「神は私を放置している。神は私を見捨てた。故に神などいない。」と愚痴や文句を滴れている基督者がいます。しかし、その劣悪な感情がやや収まった後、真に救われている基督者なら、悔い改めと神様への思慕の情が湧き出してくるものです。熱い涙が迸りいよいよ父なる神様に従っていこうと決意するのは、むしろこちらの方なのです。
❤️ところで、この二つの詩篇の全文読んであなたはどんな想いになりますか。私の個人的な感想ですが、父なる神様をより身近に感じることができるのは詩篇51篇の方です。あなたは如何ですか。