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ピリピ人への手紙 3章

ピリピへの手紙 3章
=本章の内容=

❶悪い働き人❷ちりあくたと私の望み➌栄冠を得るために❹栄光のからだ

=ポイント聖句=

神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(3:3)
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。(3:12)

=黙想の記録=

●ピリピにも悪い働き人が紛れ込もうとしていました。「自分の正当性を主張する」ことから始め、「儀式儀礼を用いて信徒の自己満足と優越感」を抱かせ、そこから徐々に律法に恭順させようとしていたのです。ユダヤ人の正当な血統の中で育ち、他の誰よりも厳格なユダヤ教を身に着けましたが、今本物の信仰を知るにつけ、それらは全く無意味であることをパウロは知らされてきたのです。
●律法を行うことが完成形ではないのです。基督教の様々な規定や高い基準を満足または到達することでもないのです。俗な言い方になりますが、教会に良く通い、毎日聖書を読み、良く祈り、伝道や奉仕を熱心に行うという「模範的的基督者」つまり「基督教の良い子」になることが完成形では決してないのです。「すでに完全にされているわけではない。追求している最中だ」とパウロは言うのです。つまり一生かかっても到達できない目標「キリストに倣う者」になることなのです。それが基督者の成人のあり方生き方なのです。しかし、これはある日突然「変身」できるようなことではありません。
●ともすれば基督者と自称する人の中にも、「関心事が地上のことだけ、自己実現や欲望の追求に走る」ことさへあるのです。パウロはそういう人のことを「キリストの十字架の敵」と呼んでいるのです。古き自分を十字架に付けられず、傍観者として十字架を眺めている人のことです。可視的教会にとっては人畜無害の人に見える人かもしれません。