ピレモンへ手紙 1章
ピレモンへ手紙 1章
=本章の内容=
❶挨拶❷オネシモの処遇について➌締めの言葉
=ポイント聖句=獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。 (1:10・11)
=黙想の記録=●本書はパウロの獄中書簡の一つですが、ローマで書いたのであろうと推測されています。ある程度の自由が効く軟禁状態であったことでしょう。恐らく、そこではパウロに尋ね来る人は後を絶たないことだったでしょう。オネシモがどのようにしてパウロに出会ったのかは定かではありませんが、少なくとも自分の主人ピレモンとは非常に親しい関係であると熟知していたようです。ところでオネシモは元々ピレモン家の奴隷です。どのような理由であれ、逃亡することは死罪にされても仕方がないほどの重罪です。オネシモは確かにいったんは自由の身になりました。ところが自由になると言うことは自ら職を見つけやはり働かなければなりませんが、言葉の訛りや態度からよそ者でありあるいは奴隷だったと言うことがすぐばれてしまうことでしょう。定職に付けないことや家庭すら持つことができない身分、あるいはいつも追手に見つけられることに戦々恐々とする羽目になっていたのです。自由を選んだことがかえって「社会的死の奴隷」常態を引き起こしていたのです。オネシモはこの事実に耐えられなかったのかもしれません。そこでパウロを頼って来たとも言えます。
●このオネシモの状態は、一度イエスキリストの救いを味わっておきながら、信仰の破船に遭う人と酷似しているとは思えませんか。基督者の生活は窮屈と感じ、信仰を捨てることでこの世の自由をいったん手にした感じがするのです。しかし、新生以前よりもっと酷い「世や自分の肉欲に奴隷状態」に陥っていることに気付かされるのです。しかし、信仰の破船に遭う人が自分で忘れていても神様は決して見捨てることをなさいません。その人を探し出すのに荊の道を通ろうとも神様は必ず探し出すのです。それは時としてご自分の僕=基督者を用いることが多いのです。そして見つけ出されたのなら「役に立つ者」に変えられていくのです。何度でも。
●何かの理由で刑務所に入った人でなければ、その恥ずかしさや惨めさは理解できないでしょう。突然の大病で以前の様な健康も仕事もできない状態になった人でなければその悔しさは寸分の一も理解できないでしょう。パウロが牢獄に繋がれたのは大袈裟な言い方をすれば「オネシモの苦しみを理解するため」だったとは言えないでしょうか。パウロが模範を残してくれたように、「様々な艱難辛苦は、同様な経験をされている人々を、『理解し・励まし・慰める力』を神様が身に付けさせる為である」と言えないでしょうか。