エリ・エリ・レマ・サバクタニ

2024年6月29日

なるほどTheBible2022/09/23
=エリ・エリ・レマ・サバクタニ=
絶望の言葉orメシア宣言?
【参照聖句】
①三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マタイの福音書27章46節新改訳2017
②わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。詩篇22篇1節新改訳2017
💙①の聖句はイエス様が十字架上で発せられた言葉としてあまりにも有名なところです。以前より私はこの個所を「十字架によって父なる神様との断絶を経験されたイエス様が絶望のあまり吐露した言葉」と教えられてきましたが、これにとても違和感を感じていました。「人間の弱さをまとわれたからこそ出てきた言葉。だから人間の弱さを理解してくださる。」との結論なのですが、本当にそうなのでしょうか。福音書で紹介されているイエス様の三年半の公生涯に、そんな人間的な弱さは微塵も感じることはできません。ましてや十字架にかかるために真っ直ぐエルサレムに向かう姿はこれから決戦の地に向かう勇者の様です。(マタイ16:21~28)この期に及んでそんな弱音を吐く様な真似をするでしょうか。
💚私はこの箇所を次の様に黙想いたしました。つまりこの場面は「詩篇22篇を引用されたメシア宣言」ということです。
💚詩篇22篇は「メシア預言」という位置付けもされているほど、イエス様の十字架刑の様子を克明に描写しています。そもそもこの22篇はダビデがバジャンの軍隊(アモリ人)に囲まれ劣勢に陥っているときに決死の祈りを捧げものでした。22章ではこの祈りが聞き遂げられたことが記されています。つまり死に瀕している者だったのですが、再び命を与えられたのです。正にイエス様の十字架の死と復活を予兆しているわけです。
💚さて私は、22章を読み進めるうちに、その章に次々に登場する生き物が気になって仕方ありませんでした。これらの生き物を引き合いに出したのには何か隠された意味があるのではないでしょうか。以下に列記してみます。
●新改訳2017●
①暁の雌鹿・・原語には表記されていません
②虫けら(6節)
③雄牛・バシャンの猛者(12節)
④獅子(13節)
⑤犬ども(16節)
⑥野牛(21節)
●NKJV訳●
①the dear of dawn単複同形
②a worm単数
③bulls複数
④lion単数形
⑤dogs複数形
⑥wild oxen複数形
💚日本語では単数形複数形の違いが明らかではありませんが、NKJV訳はそれを明らかにしています。『銘形秀則先生の「牧師の書斎」』で、この生き物達のことを十字架上のイエス様と十字架を取り巻く人々の事を指していると仰っています。先生のご説明の受け売りなのですが。自分なりにも黙想してみました。
①暁の雌鹿の鹿は単複両形で、これは父なる神様と子なるイエス様の両方を指していて、雌鹿の出産同様、十字架の苦しみを通して新たな命を産み出す様子を表していると思われます。
②はわざわざ単数形の表記がされており、人として取り扱われないイエス様を指すと思われます。
③雄牛は祭事に捧げられる生贄のことで、バシャンの雄牛は更に良質でした。これはユダヤ人の催事にも関わる人々、つまり祭司達を指していると思われます。
④獅子は敢えて単数形扱い。新約では悪魔を示していると思われます。
⑤犬どもは旧新双方とも余り良いイメージがありません。無知蒙昧な粗野な群衆や異邦人を指していると思われますが、特にここでは十字架刑の執行者のローマ兵を指していると思われます。
⑥野牛は催事には使われませんが、聖なる生き物の代表です。その意味ではユダヤ人全体を指すと思われます。
❤️こうして配置された生き物を見てくると、これらは正に十字架刑が執行された「ゴルゴダに集合した人々」を指している事になるわけです。
❤️イエス様は22章の情景が今ここに実現していることを宣言なさったのではないでしょうか。詩篇21章4節の彼はダビデ本人を通り越して来たるべきメシアを指し示しています。続く22〜24章は全て来るべきメシアを容易に想起させてくれます。メシア詩篇と呼ばれる所以で、この22章はその中でも際立っています。それは人類の救済に先立って必ずメシアに苦難が強いられている事を詳細に預言している個所だからです。