マタイの福音書27章-3

マタイの福音書27章-3(27:38~66)
=本章の内容=
❹二人の犯罪人と取り巻きの人々(2)❺埋葬
=ポイント聖句=百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」(27:54)
=黙想の記録=《38~44節》 二人の犯罪人と取り巻きの人々
(4)二人の犯罪人がイエス様の左右に置かれました。デュスマスとゲスタスという罪人で、イエス・キリストの右側で磔刑を受けたのがデュスマス、キリストの左側がゲスタスだといわれています。聖デュスマス と冠が付いていることから、磔刑に会った時に救われた人物とも考えられています。これは、右側の人物です(聖書外典偽典ニコデモ福音書10章)。マタイでは、左右の罪人の相違をこれ以下全く述べていません。
(5)すでにこの時点でわが身に災いが及ぶのを恐れていた弟子たちは胡散霧消しています。したがって、ここに書かれた「道行く人々」は、アンチキリストかあるいは物見胡散で集まった人々のことです、彼らの「ののしりの言葉」にも、祭司長たちも律法学者、長老たちの「あざけり」の言葉にも「反逆罪」について何も触れていません。その代わりに「神の子」「イスラエルの王」「神のお気に入り」などの最高の称号を使っているのです。「十字架から降りよ。」とは、父なる神様の人類救済の秘策であった十字架に気付いたサタンの焦りの言葉です。「釘付けられた十字架から、誰の手も借りずに、自力で降りるという奇跡を会衆に見せれば、それだけで用が足りるだろう。何も死ぬことはないよ。」との意味が込められているのです。しかし、「十字架で苦しむ」だけではなく、「十字架の死」「埋葬」を経験しなければ、贖いの御業とはならないのです。
(6)「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との言葉は、父なる神様から捨てられたイエス様の「絶望苦悶の言葉」ではありません。イエス様の苦悩はゲッセマネの祈りで克服されているのです。これは受難のメシヤを表現した詩篇22篇を諳(そら)んじている言葉です。この22篇の後半部は、賛美と感謝と喜びの言葉が綴られています。つまり、イエス様がご自分の使命をこの十字架で果たしたことを宣言する言葉だったのです。
(7) 「イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた」の大声で叫んだ言葉は他の福音書から「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」です。これは「お父さん。お休みなさい」とも聞こえてくる言葉です。激しい苦しみから解き放たれた安堵の言葉を最期に残しているのです。
(8)その後の出来事です。「①神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた②地が揺れ動き、岩が裂けた③墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。」①神殿の幕が上から裂けるとは、神様の手によって、至聖所と聖所が一体にされたことであり、もはや「神は手で作られた神殿を去り、もうそこに住まわれる事がない」ことを象徴していることなのです。②「地が揺れ動き、岩が裂けた」の「地と岩」とは墓地のことです。③この墓地からラザロ同様に死人が生き返るのです。眠っていたという状態は、「死んで無になる」のではなく魂は生き続けていることを表しています。ところで、生き返った人々はその後どうなったかと言えば、通常の人同様再度死ぬことになります。
(9)「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた人々」とは死刑執行人の兵であり、また必要あらば暴動の鎮圧部隊となる人々でした。特に「百人隊長」はユダヤ人が問題を起こすたびに現場に出された問題解決役のような立場の人間でユダヤ教やユダヤ人の習慣を熟知していたと思われます。「この方は本当に神の子であった」との告白は、十字架の意図が何であったのかを悟った者の言う言葉です。
《57~66節》埋葬
(1)アリマタヤのヨセフという議員が遺体を引き取り埋葬するのですが、これは大変勇気のいることです。この行為が、「自分はイエスの弟子である」ことを宣言してしまうのと同じだからです。彼はまた自分とその家族の為に用意した真新しい墓をイエス様に譲られているのです。胡散霧消してしまった弟子達は愛する主の埋葬さへできなかったのです。「伝道者」と自らを呼び吹聴し回っていた弟子の姿はそこにはないのです。弟子たちの中身のない薄っぺらな信仰だけしか見えて来ません。ところが、ヨセフの取った態度はまさに「無言の言葉」で、イエス様の芯の弟子として説得力があるのです。
(2)一方、宗教指導者は十字架につけただけでは不安が収まりません。ピラトの権限で墓に封印をさせるのですが、この時点でピラトにとってイエスはすでに過去の人だったのです。宗教指導者に寝返ったわけですから、ほどほどのお付き合いをせざるを得なかったのです。