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マタイの福音書27章-1

マタイの福音書27章-1(27:1~31)
=本章の内容=

❶ユダの自殺❷ピラトの裁判と有罪決定

=ポイント聖句=

そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。(27:13~14)

=黙想の記録=

《1~11節》ユダの自殺
🔴1節にある「協議」でユダヤ人による秘密裁判は3回目となるのです。1回目はアンナス邸、2回目はカヤパとサンヘドリン全員で。しかし、夜間の判決は無効なので、夜が明けて3回目のこの「協議」で死刑の判決を出したのです。しかし、ユダヤ人には死刑を実行する権限はありません。そこで彼らは死刑を実行する権限のあるピラトに引き渡すのです。
🔴マタイ26章2でイスカリオテユダの裏切りの動機を述べましたが、ユダはもちろん、上記3回の裁判に出席できません。「イエスの死刑判決」は予期していたことではありませんでした。ユダの自殺理由については様々なご意見がありますが、ここからは私の勝手な想像を述べさせていただきます。裏切りの内容が「イエスの死」と引き換えなら、「銀貨30枚」程度のはした金を貰うくらいでは納得できないでしょう。ですから、「宗教指導者の前に引きずり出され、滾々と諭されれば、あるいは脅しをかけられれば、イエスとて妥協してくるのでは?」あるいは「お偉方がこれだけ関心をもって集まってくるのだから、モーセ同様の奇跡を行って、彼らの心を鷲掴みにできるのでは?」などと考えていたかもしれません。判決が出ても「エルサレム所払い、あるいは、むち打ち」程度で済むだろうと計算していたとも想像できるのです。つまり、あの時のペテロ(16:22)同様、「そんなことがあなたに起こるはずがない。」つまり「死刑判決などでるはずがない。死んで花実が咲くものか。」と踏んでいたのです。「死刑」が確定し、ピラトに引き渡されたことを聞き、ユダは、慌てふためきます。取り返しのできないことをしてしまったことに気づきます。「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」の言葉には、彼なりにイエス様を愛していた様子さへ感じさせるのです。この言葉には、「愛する者を死に渡した」ことへの絶望感さへ見て取れるのです。
🔴ところが、このユダの自殺を受け慌てふためいてのは、祭司長・長老たちです。実は彼らはユダをピラトの法廷にも引き出そうと考えていたからです。マタイは「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」と引用し、エレミヤの預言が成就したと述べていますが、この文はエレミヤ書のどこにも書いてありません。かろうじてゼカリヤ11:13に類似する内容がある程度です。彼らは後日のことを考え、民衆の納得する形で、ユダの自殺の後始末をします。ゼカリヤ書には神が退けられた3人の牧者がでてきます。その部分に銀30シェケルの話が出てきます。場合によるとこの部分を無理矢理引用し、「イエスの死とユダの自殺」を結び付けようとしたのではないでしょうか

《11~31節》ピラトの裁判と有罪決定
●総督官邸でのピラトはなんとかイエス様を延命できるように健気な努力をしているように思えます。しかし、見方を変えれば、ユダヤの人心を最大限引き寄せている人物であり、目の上のたん瘤であった時の宗教指導者の口を封じる有効打が「目の前のイエスである」と彼は計算したのです。イエス様はあくまでの政治の具に使おうとしていたのです。イエス様がピラトに命乞いをしピラトと結託するならば、ローマ兵を使って武力鎮圧も辞さなかったのです。「あなたはユダヤ人の王か」の問いや「バラバの釈放」は、イエス様から政治的結託を引き出すための方便だったのです。しかし、「イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。とあるように、彼の目論見は、イエス様の無言の言葉によって断ち切らてしまいイエスとは組することができないとわかるや否や、彼は、事を荒立てないために、その場をやりすごすのです。律法も正義も民族の誇りも見受けられない只の暴徒と化したユダヤ人を前に、法の執行者としての威厳が保てないと踏んだピラトは、「イエス懐柔策」を止めるのです。もし、ピラトがローマの正義を貫こうとするなら、鎮圧部隊を出してこの場にいた者達を一瞬にして取り払うことはできたでしょう。しかし、武力行為を行使した場合、ローマでの評価は地に落ち、その後の昇進への望みは絶たれるのです。ならば、たった一人の人間イエスを死刑にすることの方がリスクは少ないと踏んだのです。ピラトは僅かな特権階級の思う所にイエスを引き渡してしまいました。