マタイの福音書26章-5
マタイの福音書26章-5(26:57~75)
=本章の内容=
❿カヤパ邸での秘密裁判⓫ペテロの裏切り
=ポイント聖句=するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。
=黙想の記録=🔴カヤパは大祭司であったアンナスの婿で、ローマ総督の任命によって大祭司となった人物です。これは当時のユダヤではハスモン朝以来の伝統で大祭司が王と同じように政治的な影響力をもっていたためです。後半にペテロの裏切りの際、「鶏が鳴いた」ことが記されていますが、ユダヤの裁判規定によれば、『鶏が鳴く前の裁判は無効』となるのです。ところがこれを無理やり実行したことは、この裁判が民衆の反感を引き起こさないための「秘密裁判」であることを裏付けているのです。
●カヤパの家・サンヘドリンでは、不当な裁判を次から次へとイエス様は経験なさいます。ここで彼らの背景にはサタンがいることを忘れてはなりません。サタンの攻撃手段は、「からかうこと」「鞭打つこと」「目隠しすること」「悪口を浴びせること」でした。「鞭うつこと」は身体への影響を及ぼすことでありますが、死に至らせるわけではありません。あくまでもイエス様ご自身の行動を抑制させるものですが、「からかうこと」「目隠しすること」「悪口を浴びせること」は精神的な不安を湧き立たせ屈辱を味わわせるサタンの常套手段で、「人間を神様から引き離す」時によく用いられます。
●議長・副議長を含む総勢71人から構成されるサンヘドリンでは、ののしることはできますが、死刑判決が出せません。次から次へと偽証者が登場しますが、決め手は全く出てこないのです。しかし、反対者のいない秘密裁判(宗教裁判)は、白である者も黒にしてしまうことができるのです。サタンの手段は、理由にもならない理由のごり押しです。一連の流れから、私たちは肉に働くサタンの巧妙な働きを覗くことができるのです。
●マタイやルカはなぜ「ペテロがイエス様を三度も否む」様子を細かく表現しているのでしょうか。ペテロは自らの恥ずかしい過去をルカに敢えて書かせることで、いかなる基督者でも主の憐れみが用意されていることを伝えたかったのではないでしょうか。ペテロは大祭司カヤパのいたアンナス邸まで人々に紛れ込んでくっ付いていきました。この場に及んでもペテロにはイエス様が形勢をひっくり返し、大逆転劇を演じるのではという望みがあったように思われます。ところが、三人もの人物に素性を明かされ、卑怯にもその場から逃げ出すのです。これでは、他の弟子たちと五十歩百歩なのです。
🔴ペテロが敵から受けたこの三つの質問とその返答を通し、心の微妙な変化を福音記者は伝えたかったようです。同時にこれはサタンに誘惑されるときのお基督者の姿にも被るところがあります。第一に「ガリラヤ人と一緒にいた」と遠回しな言いがかりに対して、ペテロは「何を言っているのかわからない」と言い訳します。第二に「ナザレ人イエスと一緒にいた」との言いがかりに「そんな人知らない」とごまかすのです。第三に「彼らの仲間だ。言葉の鉛でわかる」との、逃れようのない事実を突きつけられ、「嘘なら呪われてもよい」と誓うのです。彼は「嘘」を突き通したのです。しかも全てわが身の保身のためでした。私たちキリスト者は時に、イエス様を無視し置き去りにして逃走してしまうことがあるのです。しかしその度にイエス様は憐れみをかけてくださることがこの場面から汲みとれます。
🔴おおよそ「人間の決意や決心」は三日坊主で胡散霧消することが多いのです。基督者もその御多分に漏れません。「今日から、あの人のことを愛情をもって接してあげよう」とか「今日からもっと伝道しよう」とか「今日からもっとみ言葉を読もう」とか。誰も出発点は同じでも、途中で挫折してしまう基督者のなんと多いことでしょうか。それはあなたが「あなたの心・その時の気分」に従ってきただけで、最初から「神様の御心」ではなかったのかもしれません。またあなたが「信仰の基本が出来上がっていない」のに「高望みや背伸び」をしていたからかもしれません。あるいは神様の御心と正反対のことをしていたのかもしれないのです。何度もお勧めしていますが、日々に神様と交わることが習慣化されないのでは信仰の成長も神様の御心を完遂することも叶うはずがないのです。
🔴ところでこんな意志薄弱な私たちを、何度も失敗を重ねる私たちのことを、主は否まれているでしょうか。始めからすでに弱さを身に纏うあなたの全てを見抜いておられます。それでもご自身の業の完遂の為、私たちを召し、さらに用いようされることは驚嘆に値しませんか?