マタイの福音書26章-4

マタイの福音書26章-4(26:36~56)
=本章の内容=

➑ゲッセマネの園❾捕縛

=ポイント聖句=

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。(26:41~42)

=黙想の記録=

《36~46節》ゲッセマネの祈りとは何だったのか
●ゲッセマネの園はエルサレムからこのケデロン渓谷を超えた東岸にありました。このケデロン川を渡った先に開けた丘陵地帯があり、それがゲッセマネの園です。「ゲッセマネ」は「油絞り器」の意味を表すヘブル語。オリーブの実を絞っていた農場のことです。ここは城壁も囲いもない大変無防備な場所でした。すでに臨戦態勢に入っているはずなのに、イエス様の選択された場所は、敵に対峙する場所とは思えません。むしろ一般民衆に危害が及ばない所を敢えて選んだとしか思えません。天の軍勢も加勢に呼ばれていません。イエス様には初めから抵抗する意志がないのです。しかし、サタンにとって、それこそは一瞬の勝利を経験できる格好の戦場だったのです。
●ゲッセマネの園での祈りは、「イエス様ご自身が胸にしまった不安感を克服し、自分を奮い立たせるもの」だったのでしょうか。それとも「命乞いや自己憐憫」だったと言うのでしょうか。ならば三人の弟子を呼び寄せ。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。目を覚まして一緒に祈っていなさい。」などという必要はどこにあったのでしょうか。このゲッセマネの園の祈りは人間イエスの弱さを吐露する場所ではありません。ここは、『祈りの必要性を教える弟子教育』の場と考えるのが自然です。今後弟子達もイエス様と同様に「困難な局面を迎える」時が必ずやってくるのです。この「難局を乗り越えるために祈りは不可欠のものである」ことの実物教材がこのゲッセマネだったのです。悪魔の激しい攻撃にさらされているときに「祈りよって打ち勝つ」ことを教えていたのです。「三度も弟子のもとに行き叱責された」のが何よりの根拠です。
●ゲッセマネで示されたイエス様の祈りの神髄とは「みこころならば、みこころのとおりに・・・」に表現されるように、第一に、自分の希望が叶うことを期待することではなく、神様のご計画が遂行されるように願う冷静な僕の態度です。そして、自分の願望を取り払い神の御心に従うせるため心備えの時でもあるのです。しかし、その重要な実地訓練にもかかわらず、イエス様の「目をさまして」のこの単純な命令さへ守れず、三人は眠ったままでした。あれだけ勇ましいことを言っておきながらペテロもこの体たらくです。このような激しい祈りは一朝一夕にはできないのです。イエス様が模範を残してくださった様に日々に祈りの訓練を積み重ねなければならないのです。

《47~56節》捕縛
●「口づけをして」とは本来、「親愛の情を表す行為」ですが、ここでは敵の先導者としてイエス様がどこにいるのかを指し示す為だけのものでした。人間がもっとももろくてひっかかりやすい点は「見せかけの愛」を逆手に使われることです。サタンの策略は、「人生を神に委ねることに失望させること」そして「他人を最大限利用し、自分自身で人生を切り開いていくという決意させること」にあるのです。
●他の弟子たちが蜘蛛の子を散らして逃げ惑う中、ペテロは勇敢にも武器を持って捜索隊に向かっていきます。多勢に無勢(たぜいにぶぜい)。しかも武闘の達人とド素人です。初めから叶うわけがありません。不幸中の幸いは、ペテロは相手に傷を負わせることはあっても殺人までは犯さなかったことです。イエス様にとっては、敵はサタン。自分を捕縛するために来た人も救いに導かなければならない者達だったのです。こんな緊迫した中で、負傷した捜索隊の一人を癒されたのです。ところが耳を切られた「マルコス」は大祭司の奴隷の一人で武器を持っていなかった可能性があります。もしそうならば、ペテロは強者の兵士を相手にせず、弱い者を狙ったことになります。私から言わせてもらえれば、「勇者である振りをしている弱虫」がペテロです。イエス様が無抵抗でお有られた御心をペテロは全く理解していません。。
●ペテロやそのほかの弟子たちは、イエス様がゲッセマネで祈りによる「霊の戦い」の現場に立ち会ったはずです。ところが自分の力任せの熱情だけで、問題を解決しようとしているのがこの捕縛の現場です。これが「血肉の戦い」です。これもまた「人間の持つ闘争本能」を煽るサタンの常套手段なのです。「捕縛する者たちと争う」ことではなく、「十字架に静かに向かうこと」が「ほふり場に引かれて行く子羊(イザヤ53:7)」の聖句の成就であることをイエス様は十分意識しておられました。幾万の天使を呼び出し、捕縛にきた兵士たちを一掃することさえできた方が敢えてそうしなかったのです。最後まで敵味方の隔てなく手当をすることで、神様の愛を実現されました。これもまた、「霊の戦い」にすでに勝利されたので、「肉の戦い」は不要になった結果とも言えるのです。「捕縛される」のでなく「自ら進んで十字架につく」プロセスが始まりました。