マタイの福音書26章-3

2024年9月29日

マタイの福音書26章-3(26:26~35)
=本章の内容=

❻聖餐式の始まり❼ペテロへの忠告

=ポイント聖句=

ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。(26:35)

=黙想の記録=

《26~29節》聖餐式の始まり
🔴過ぎ越し祭で注目すべきことは、「ヤハッツとアフィコーメンとツァフォーン」と呼ばれる儀式です。ヤハッツで用意されるパンは種なしパンで三つ。三つのパンのうち真ん中のパンをアフィコーメンと呼び、このパンには表面に傷をつけ穴を空けておきます。それを半分に裂き、さらに大きい方を亜麻布に入れてしばらく隠し、ツァフォーンという式次第で子供たちがこれを探し出し、全員でこれ食します。まさにこのプロセスは三位一体の神(三つのパン)、そしてイエス様の十字架刑(表面を傷つけ穴を空ける)、そして復活(しばらく隠された後見つけ出される)を表すものです。また杯は計五杯用意され、四杯は口にし、最後の一杯には口をつけません。ツァフォーンの直後に飲むのが三杯目の杯です。聖餐式はこの十字架の受難と復活を想起させる過ぎ越し祭のこの部分から抜粋し、キリスト者の新たな儀式として制定されたのではないでしょうか。
🔴使徒達は教会スタートと同時にこの聖餐式を守っていきました(コリント第一11:23~25)。聖餐式を守る必要について、イエス様自らがこう説明されています。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。(26:26)」、「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(26:27~28)」ユダヤ人の過ぎ越しの祭りは「出エジプトを成し遂げてくださった神様への感謝」と「ユダヤ人としての民族意識を高揚し次世代へ継承する」ために行われてきました。同様に、初代教会から今日に至るまで、キリスト者と教会は、聖餐式を「神の子なるイエスキリストによる救いの成就への感謝」と「次世代への継承」としてきたのです。さらに、イエス様が結んでくださった新しい契約が、現在なお契約履行中であることを示すのがこの聖餐式なのです。過ぎ越しの祝いにまでユダを参加させたのは、ぎりぎりまで悔い改めを迫るイエス様の愛の故です。残念ながらユダは「この世の息遣い」には鋭敏に反応できましたが、「イエス様の心遣い」には最後まで鈍感だったのです。ユダの様に「闇を愛する生活」は、「全て自分で人生を切り開こう」といつでもどこまでも画策しなければならなくなるのです。

《30~35節》ペテロへの忠告
●オリーブ山は神殿の東北東に位置する海抜814mの小高い山のことで、その西側斜面にゲッセマネの園があります。過ぎ越し祭りの余韻冷まし、今後の展開に対する覚悟を示すため、オリーブ山に出向きます。到着後イエス様が語られたのは、弟子たちの離散のことです。弟子たちはこの機会を今後の為の決起集会と思い込んでいたのですが、それに冷や水をかけられてしまったのです。弟子たちは慌てふためきます。
●ペテロは弟子たちの中でもリーダー的な存在としてイエス様は見ておられ、重大な局面の時いつもペテロを近くに寄せ、だれよりも多くの時間を割いていた人物です。ですから、この離散の話を逆にとらえ、「わが身が大事と思うものはここを立ち去れ」と聞き違えてしまうのです。鶏鳴の預言ですが、一番どりが鳴くのは、午前二時頃です。ということは、ペテロは勇ましい覚悟を披露した直後一日も経たぬうちにイエス様を裏切るのです。ペテロの言動の発端はいつもその場の雰囲気(感情)に流されるところにあります。情熱(感情)は必要です。しかし、キリスト者の行動の根拠は感情ではなく「御言葉の裏付け」と、少なくとも周囲の兄弟姉妹が納得できる「環境の導き」です。