マタイの福音書26章-2

マタイの福音書26章-2(26:14~25)
=本章の内容=
❸ユダの裏切り❹祭りの準備❺裏切り者探し
=ポイント聖句=人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。(26:24)
=黙想の記録=《14~19節》ユダの裏切り
●「イスカリオテ」とはヘブル語で「イシュ・ケリオト」で「ケリオトの人」という意味です。このケリオトは、エルサレムから約30km南方で死海西方のヘブロン近郊の寒村のことです。他の弟子全員がガリラヤ出身です。肥沃で活気に満ちていたガリラヤからすれば、だいぶ荒涼として貧しい場所の様です。その為、12弟子の中では浮いた存在だった言う説もあります。高価な香油をイエスの足にぬったマリアを非難していましたが、金に執着し、使徒たちの会計を任されながら、すでに不正を行っていたとことを匂わせるのです。「指導者たちの陰謀とユダの裏切り」については、マタイ・マルコ・ルカだけは記述していますがヨハネはしていません。イエス様は起こるべきことをすべて知っており、むしろ進んでユダに指図しているようにすら見られます。イスカリオテのユダの裏切りの動機はどこにあるのでしょう。弟子たちは、エルサレムに入り、何か一波乱起きる予感がしていました。イエス様が「メシヤの受難と死」を強く主張し始めてきたことに武装蜂起もありうると錯覚します。民衆が一気に結集する期待感を抱いた。弟子たちは来るべき王国での自分たちの地位や生活について期待が膨らんでいた。ところが、エルサレムに入城した後で、期待していたことが起きないことに疑問を感じていました。ユダがイエス様に見切りをつけてしまったのはある意味で先見性があったのです。ところで、イスカリオテのユダにとっての特殊事情があったことをお気づきでしょうか。彼は、ナザレ派全体の金庫番をしていましたが、事あるごとに横領していて、いつかこの犯罪行為が発覚することを恐れていたのです。すべてをお見通しのイエス様が「自分の犯罪行為を知らぬわけがないのです。横領が暴露されしまえば、来るべき王国での地位は藻屑と消えるのです。金銭に無欲なイエス様の様子が気に入らなかったこと、そしてナルドの香油事件はユダの裏切り行為決定づけてしまうのです。イエス様の「埋葬の用意」にという言葉にも敏感に反応してしまうのが彼でした。ついにイエス様と袂を分かつ決意をします。ナザレ派を離れ、旅立つための資金として、祭司たちから受け取ったのがあの銀貨とも言えるのです。同時に裏切る行為を民衆から追及されることから、少しでも逃れていたいと思い、宗教指導者の保護を得るための手付金とも言えます。●サタンの側から見たユダの裏切り行為です、サタンの狙いは、第一に神と人との仲介者であるメシヤの事業をやめさせようとしたことです。第二に、自分が愛情をかけてきた人間からの裏切りに対してイエス様を失望させることです。第三に十字架で終わりを迎えなければならないという不条理を感じさせることで、神の事業への空虚感あるいは人間同様の疑念を起そうしたとも考えられるのです。
🔴当時成人男性の日給が1デナリ銀貨(重量で1シェケル)で支払われました。日本の平均日額は1.8万円ですから、銀貨30枚は54万円となり、年式の古い中古車1台分程度です。1デナリをとは「銀貨30枚(30シェケル)」は主イエスの命に付けられた値段でしたが、これは成人奴隷、しかも不如意の事故で無くなってしまった奴隷隷の持ち主への賠償金、つまり「死んだ奴隷一人分」の売買価格でした(出エジプト21:32)。この箇所で悪魔に魂を売り飛ばしたイスカリオテのユダと宗教指導者、そしてメシヤ抹殺計画が着々と進行するのをほくそ笑んでいるサタンの姿が想像できるのです。
《20~25節》祭りの準備・裏切り者探し
●過ぎ越しの祭りの準備はユダには一切知らされませんでした。結集しているところが分かれば、そこで捕縛が可能だからです。「過越の祭り」は、ニサンの月14日の1日だけの祭りで、「種なしパンの祭り」は、15日以降7日間の祭りです。大広間を提供した主人がイエス様一行を迎え入れることは宗教指導者たちを向こうに回す危険性があったのです。それにも拘わらず迎え入れる心を整えられていました。父なる神様の格段の配慮があったと思われる。この主人には何かの見返りをイエス様から期待するさもしさは一切感じられないのです。この祭りの一連の流れは、出エジプトを記念するものではありますが、私たちの救いの為にイエス様が十字架にかかり復活されて天に戻られこと、さらに基督者がイエス様の再臨を待望する様子を表しているものです。そしてイエス様が結んでくださった新しい契約が、現在も契約を履行中であることを示すのがこの過ぎ越しをもとにしてできた聖餐式なのです。過ぎ越しの祝いにまでユダを参加させたのは、ぎりぎりまで悔い改めを迫るイエス様の愛の故です。
●「裏切り者探し」からそれぞれが「後ろめたさ」「醜さや愚かさ」が思い出され、それを打ち消したい一心から、自分たちの手柄話で払拭したかったのではないでしょうか。誰よりも自分を前に出したいという自己顕示欲があり、それに引き回される生き方をするのです。