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マタイの福音書26章-1

マタイの福音書26章-1(26:1~13)
=本章の内容=

❶受難予告❷石膏の壺

=ポイント聖句=

弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。(26:8)
イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。(26:10)

=黙想の記録=

《1~5節》
🔴過ぎ越しの祭りは、『圧政下にあったイスラエル人が、エジプトから脱出するきっかけは、エジプト全土の「長子を皆殺しする」という最後の災いから逃れるとき、神様が命じられた「過ぎ越し」の儀式を行った』のがその由来です。神様から遣わされた死の使者には、門柱と鴨居に塗られた動物の血を目印となり、死をその家にもたらさなかったのです。何一つ罪のない子羊であるイエス様が十字架に架けられ命を落とすことなしに、救いの道はありえなかったのです。しかし、この時点ではそれを悟ることができた十二弟子は誰一人としていなかったのです。同時に、宗教指導者はイエス様を泣きも二にするための算段を着々と進めていました。彼らは闇夜に民衆が気付かないうちにすべてを終了することを綿密に計画していたのです。イエスもまた人間。この男一人がいなくなれば、この集団は胡散霧消すると彼らは踏んでいたのです。
《6~13節》ここではマリヤの崇高な行いとイスカリオテユダの闇の深さが記されています。
🔴マタイ・マルコ・ヨハネの3福音書がこぞってマリヤの香油注ぎを取り上げています。ナルドは甘松香(かんしょうこ)と言ってヒマラヤ地方原産の多年草を乾燥して作られたものです。1リトラの香油(新改訳2017版)とありますが、これは約326グラムです。これはコーラの最小ボトルの約1本程度です。少しカビ臭い香りが死の旅路に向かう人への手向けに使用され、亡くなった方に塗られていました。たったこれだけで300デナリというのですから驚きです。「何のために、こんなむだなことをするのか。 この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」とは、イスカリオテのユダが最初に発した言葉で、マタイの福音書は他の弟子たちもそれに同調していたことを記しています、確かにこの香油を換金すれば、イエス様一行の為に多額の路銀となったことでしょう。「石膏の壺を割り香油を一瞬で使い切る」というこの行為は、あまりにも衝動的で、さらに集団の意向を全く汲んでいないのですから弟子たちが憤慨するのも無理はないでしょう。しかし、彼らは香油の価値はわかっても、これから戦地にでもでかけそうなただならぬ雰囲気のイエス様を一瞬でも安らかでいていただこうとする彼女の深い心を理解できなかったのです。弟子たちは物の価値をこの世の基準でしか測ることができなかったのです。「社会貢献など無用の長物、それだけの手間暇があるのなら伝道に使った方がましだ。」と言っている一部のキリスト者と酷似してはいませんか。
🔴ユダの言葉の舌下には「私が売るのなら」という条件がついていたのです。彼が、香油を販売しようとすれば、必ず中間マージンを付け加え、上前を自分のポケットに入れるはずだったのです。他の弟子たちには、イスカリオテユダの企みにも全く気付かなかっのです。前章の五人の娘たちと同様に、彼らの霊は眠りこけていたのです。ここでは、マリヤの行為の崇高さを値踏みするイスカリオテユダの心の闇を見るのです。
🔴マリヤはイエス様が十字架につくことを予期していたとは思えません。弟子たちの矢のような非難に対し、イエス様はその行為を「埋葬の準備」と正当化してくださいました。さらにこの行為が今後、「記念」のように取り扱われ、すべてのキリスト者模範となることを宣言なさってくださいました。常に「神様の御心を察しようとする」単純な動機こそ、本人も気づかぬうちに崇高な行為となっているということです。キリスト者にとっては「偉業を成し遂げる」あるいは「結果を出す・成果を収める」ことより「動機」が重要なのです。