マタイの福音書25章-3

マタイの福音書25章-3(25:31~46)
=本章の内容=
❸羊と山羊
=ポイント聖句=すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」(25:45~46)
=黙想の記録=※ここでも私は患難前携挙説の立場から黙想しています。予めご了承ください。
●「人の子」とは「ダビデの子孫」つまり「約束されたメシヤ」の別称です。そしてこの場面は、「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。」とあることから、直接的には「イエス様の地上再臨」の出来事を指していますが、「羊と山羊」の振り分けの話は、目の前にいる宗教指導者への警告でもあったのです。
●当時日中は羊も山羊も一緒のフィールドに放牧されました、羊は兎も角臆病で群れたがる家畜ですが、山羊は好奇心や自立心が強く物おじせずにどんどん先に進んでしまう家畜です。そこで山羊一頭を羊の中に入れて置けば、その山羊が群れのリーダーとなり、山羊を御することで群れ全体を誘導するのが楽になるわけです。しかし山羊は勝ち目のない獣たちがいる危険地域にも向かわせる為、山羊だけを統率者とはできないのです。この状況は、正に当時のユダヤ社会を表現したものです。羊とは一般民衆のことであり、山羊とは支配欲の強いわずかな宗教指導者のことを指しているのです。山羊だけに統率される群れは、羊飼い(メシア)の存在を意識していない宗教指導者に導かれている当時のユダヤ社会で、彼らに従って行けば導く先は「滅亡」以外考えられません。ここで振り分けられた羊は「御国を継ぎなさい」と約束されています。が、山羊は「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」と裁きを下されます。ですからこの言葉は「山羊」つまり当時の宗教指導者に対するイエス様の激しい警告にほかなりません。
●「振り分け基準」つまり「山羊と羊」の見分け方のことですが、「わたしにしなかった」とあることから、「わたし=メシア」に対しどんな対応を取ったのかが「振り分け基準」となるわけです。が、読み進むと「わたし」に対する直接の対応のことではなく、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」とあり、これらの人物達にどう対応したかが問われていることになります。ではここで挙げられた「わたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たち」とは誰のことでしょうか。イエス様のこの話の元になっているのが旧約聖書の『わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。(イザヤ58:6~7)』です。この聖書箇所では関心を寄せるべきは「虐げられた者・飢えた者・家のない貧しい人・裸の人・肉親」のことで、社会から疎外されている今流に言うなら「社会的弱者」のことです。つまりこの社会的弱者こそ「わたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たち」を指しているのです。これが実行できなければ「山羊」と分類されるのです。ところで、この基準から突き詰めていくと「山羊=宗教指導者」とは決めつけられなくなることに気づきませんか。自分は羊の群れの中にいると思い込んでいる山羊もいるのではないでしょうか。社会的弱者に関心を持てない人物は羊ではないのです。現代の基督者に適応すれば、良く聖書を読み良く祈り良く教会出席しているからという理由だけでは羊に分類されないのです。自分をさておき社会的弱者に関心を払えない様な心の持ち主では真の基督者とは分類されないのと一緒です。
●当時の宗教指導者がやつれた顔をして自慢げに断食の話をするのを人々は辟易としていました。「己の信仰深さ」をこれ見よがしに見せ回っていたのです。宗教指導者の言動は「自己満足・自己陶酔」の域を一つも超えていないのです。「父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。(ヤコブ1:27)」とヤコブがいうように、「社会弱者に関心を寄せ、救済の手を差し伸べることができない信仰」は、本物とは言えないのです。
●蛇足ですが、羊飼いは夕刻になると、羊と山羊を振り分けて、それぞれにねぐらにに戻します。真夜中にはこの振り分け作業はできません。このことから、この作業が実行されるのは、暗黒時代の限界点、つまり7年の患難時代後半の「大患難時代」の直後ということが伺えます。