マタイの福音書25章-2

マタイの福音書25章-2(25:14~30)
=本章の内容=

❷タラントのたとえ

=ポイント聖句=

『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(25:22)
役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。(25:30)

=黙想の記録=

🔴この箇所は、前章と同様に宗教指導者に向けての警告を教えてところです。「タレントの語源がタラント。つまりこの部分は「キリスト者が初めから持っていた天与の才能(芸能・スポーツまた雄弁さなどこの世の中が認める特異な才能)を生かしなさい」という説教にしてしまうのには、大変無理があります。このたとえの後半部分には「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。(25:30)」とあることが「才能のことを言っていない」ことの根拠です。才能で死後の世界の行き先が決まってしまうなら、凡人は全て、外の暗闇にいることになります。ですから、「十人の娘」のたとえと同様、ここでは「聖霊を内住しているかどうか」について述べているところなのです。
🔴1タラントが6000デナリに相当します。日本人の年間平均賃金が467万円(2019年)で年間の労働日数は257日。つまり日当1.8万円です。仮にこれを当てはめると、1タラントは1億800万円となります。5タラントなら5億4千万円。2タラントで2億1千6百万円となります。この額はとても一個人が最初から所持できるはずのない「途方もない金額」なのです。ここから、このタラントは、私たちに与えられ、肉体に宿ってくださる『もう一人の助け主(神)つまり聖霊』のことを指しているのです。最初の二人の人物はこの聖霊を受け取り内住することできたのです。さらに、この二人のしもべは、その聖霊をとともに、御霊の実(ガラテヤ5:22)を結実つまり財産を増やすことができたのです。大事にしまっておくだけでなく、それを大事に育てる必要があったのです。ですからそこには、御霊の実を実らせる方法に対し、自己流を貫くことではなく、示されていた方法を忠実に実行しなければならなかったのです。ところが最後の一人にも「聖霊の提示」はありましたが、それを受け取ることを拒否してしまったのです。彼にとって聖霊は無価値なものと思えたのです。聖霊が内住していないのですから、聖霊のご人格に触れることや、実際の助けを経験できるはずがありません。そればかりか、「聖霊を提示」してくださった主人の人格さへも完全に否定しているのです。ですから、イエス様から送られる聖霊を拒否することは、すなわち永遠の命をかくとくできないこt尾になるのです。
🔴さて、御霊の実とは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。この九つの御霊の一つでも結実できるのなら、そのキリスト者は、「父なる神様も認める財宝」を獲得したのと同様なのです。つまり御霊の実を一つでも結実できるのなら、そのキリスト者は「神の子イエスキリスト」のご人格を如実に反映していることになるのです。このうち他者への働きかけに必要なのは奇しくも「五つ」で、それは「寛容、親切、善意、誠実、柔和」です。面白い一致です。主人は最後まで「しもべ」と呼び続けています。しもべは、あくまでも「しもべ」です。個人経営者ではありません。しもべは「仕えるのが使命」であって個人の幸福を追求するのではなく「主人が喜ぶこと」をもって満足するのです。主人の意向に背き、また監視されているわけではないから自由気ままに過ごすことは、許されないことなのです。では主人もいない現状で何に仕えるのかと言えば、それは、第一に主にある兄弟姉妹、第二にまだ主の救いを知らない人たちのことです。彼らを支配するのではなく仕える姿勢を取るとき御霊の実が成長し結実出来るようjになるのです。