マタイの福音書25章-1

マタイの福音書25章-1(25:1~13)
=本章の内容=
❶十人の娘
=ポイント聖句=その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』(マタイ25:11~12)
=黙想の記録=様々な異論はあろうかとおもいますが、神様の創造物から神様の御存在と御性格を悟ることができるのと同様に、私は個人的に「ユダヤ式結婚式の特徴」から「空中携挙」の存在を悟り信じることができるのです。「空中軽挙」は戦時中も決して時の政府に妥協することなく(多くの兄弟姉妹が具体的な迫害を受けてきました)信仰に立って困難を乗り越えて来た日本プリマスブラザレンの伝統的教義です。
①結婚式と婚宴がある。・・・ユダヤ式「結婚式」で、①花婿は花嫁を花嫁の自宅まで迎えに行き②花婿の自宅で結婚式が行われます。この様子は、イエス様が基督者を空中携挙し、天に迎え入れ結婚式を行う様子を想起することができるのです。ユダヤ式の婚宴は花婿の実家で7日間も結婚式が続き、その後婚宴となる。これは、空中携挙の直後に7年間の患難時代の間花嫁は患難とは無縁の場所にいることを想起させます。
②花婿は花嫁を迎えに行く・・・地上再臨ではなく、空中携挙の様子
《1~4節》ここで言う花嫁とは誰のことでしょうか。
①本章は前章同様「ユダヤ人向け」に語られたものです。預言では背信したイスラエルを「妻の不貞」と表現しています。また、回復するイスラエルを花嫁とたとえています(エレミヤ2:23)。ここで10人という数字が使われていますが、「十」はユダヤ人にとって馴染み深い数字です。ロトを救うためにアブラハムが主に嘆願したときの「もしかすると、そこに見つかるのは十人かもしれません。(創世記18:32)」の数字も十人です。
②イスラエル人は全員花嫁候補でしたが、準備の整った花嫁とそうでない花嫁が5人5人の割合でいましたが、これもまた前章同様パーセンテージのことではなく、二者択一を指しています。ユダヤ人でイエスキリストをメシヤと信じる人々もまた空中再臨で携挙されます。しかし「ともしび」を持たない花嫁候補には天での結婚式は有り得ないのです。
③本来花嫁が準備するものは、ともしびと油です。「ともしび」とはランプのことですが火がついていません。そしてこのともしびは「聖書」を表しています(詩篇119:105)です。そして「油」はともしびに火をともし続けるためには不可欠のもです。ユダヤ人の祭儀で使う「ともしび用の油」は、純度が高くないと火がともりません。油そのものは神の「特別の許可」や「特別の召命」を表す時にも用いられます。ヨハネはこの油のことを暗に「聖霊」と表現しています(Ⅰヨハネ2:20)。このことから、十人の花嫁は、神のみ言葉(聖書)を持ってはいるが、聖霊が注がれている人物達か、それとも注がれていない人物達を表しています。このたとえもまた、「愚かな花嫁」と表現されているのは、当時の宗教指導者達のことだったのです。
《5~13節》花嫁の行動から学ぶこと。
(1)十人全員が「うたた寝」をしてしまうのですが、二つのグループでは心も持ちようが全く異なります。賢い乙女たちは万端の準備が出来ていたので、安眠していたのです。一方愚かな乙女たちは自分のことで躍起になり疲れ果ててしまった惰眠だったのです。つまり、聖霊を持っている本当の平安な状態で安心していたのか、聖霊による平安ではなくこの世の惑わしに身をゆだねた怠惰の眠りであったのかの相違です
(2)賢い乙女は、「花婿が来た」という号令に即座に出かけることができました。ところが、愚かな乙女たちは、油を購入するために外出し、花婿の到着時刻に間に合いませんでした。それどころか、辿り着いた花婿に門残払いを食らうのです、また花婿からは花嫁として認めてもらうことができなかったのです。これは当然なことです。花婿が迎えに来た時にその場に居合わせなかった非礼からです。愚かな乙女達が時間に間に合わなかったことは「態度」の問題です。つまり、油の重要性を知りながら、その準備を無視していたからです。これも花婿と相思相愛の態度とは到底言えません。
(3)宗教指導者たちは、この世で惰眠をむさぼっていました。彼らのすることといえば、地歩の確保であり、安穏とした生活であり、彼らが口にしてきた「全能の神に従う」思いなどこれっぽっちも持ち合わせていなかったのです。