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マタイの福音書24章-3

2024年9月22日

マタイの福音書24章-3(24:32~51)
=本章の内容=

❹いちじくのたとえ❺ノアの日の様に❻不誠実なしもべとは

=ポイント聖句=

そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(24:50~51)

=黙想の記録=

《32~36節》「いちじくの木から教訓を学びなさい
🔴いちじくは、冬には葉を落とすなど季節感がはっきりしている落葉樹です。このことから、「私たちは世界が迎える終末のどの時期に来ているかを感じ取ることが可能だ。」と説明されています。
🔴「戸口まで近づいている」とはまだ家に入っていない状態です。本格的な患難時代の直前期に差し掛かっていることは、時流の流れから感じとることができるのです。
🔴「これらのこと」とは、大患難時代をさしています。天変地異や戦争紛争が集中して起こるときがあります。その直後に、イエス様の地上再臨があります。
🔴この世の様々な体制や人々が常識と思っていたことがすべて崩壊します。しかし、聖書の言葉は確実に実現します。
🔴しかし、患難時代の開始日は「予感」できますが、「予測」はできないのです。なぜなら、イエス様を含む人間にはそれを知る権利が与えられていません。父なる神様の権限で、終末時代は決められるのです。
《37~41節》「ノアの日と同じように実現する」とありますが、箱舟を建造するために、相当の年数が経過していたはずです。ノアに敬意をもって尋ねるのなら、「箱舟建造の意味」も。「父なる神様の裁きの理由」も十分知ることができたはずです。しかし、ノアの一族以外の人々は、関心すらわいてきません。快適な生活さへ送っていれば、信仰など不要という状態だったのです。、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」することに反抗心はありません。しかし、父なる神様に無関心でいることは当然救いに預かることができないのです。
🔴「畑にいた二人の男」や「臼を引く二人の女」の話は、パーセンテージの話ではなく、「二者択一」つまり、永遠の命への信仰を「受け入れる」か「拒否する」か、二つの一つしかないことを表したものです。優柔不断の状態でいてはいけないのです。
《42~51節》家の主人・しもべのたとえ
🔴ここでの強調点は、「目を覚ましていること」と「忠実に歩むこと」です。すべては患難時代の始まりは予告されていないことを「泥棒」をたとえとして使っています。つまり日時を特定することは不可能ということです。多くのキリスト教指導者がこの点でつまずきを不用意に起こしています。その為に、信仰の弱い人々に対し、「人生を狂わされたリ、信仰を失う」という大きな罪を犯してきたのです。予感していいのです。しかし予測や予言をしてはならないのです。
🔴「目を覚ましている」とは、終末に対する特別な備えをすることを意味していません。生活の節々をよく観察し、聖霊なる神様の御力の障害になっている、肉の欲に対処することです。また御霊の実をこの身に成らせているかを点検することです。「伝道による実」は二の次です。この場合、主人とは誰のことでしょう。無論再臨の主イエスキリストです。ではしもべや祖しもべが管理するしもべたちとはだれのことでしょうか。これは、イエス様の前にいる聴衆全員です。その中には民衆を導く宗教指導も含まれます。しかし、その主人を待つ待ち方が問題なのです。主人が来るまでにしもべがしなければならないこととは何でしょう。商売でしょうか。財産を増やすことでしょうか。そうではなく、「仲間のしもべ」をよく指導することが任されている内容です。ところが、時の宗教指導者は、民衆を脅し、搾取し、痛めつけていたのです。まさにここに出てくる「悪いしもべ」のことです。ですが、同時にこれから世に出現する地域教会の各指導者のことも意味しています。ここで罰せられ、ゲヘナに投げ込まれ泣いて歯ぎしりするのは、キリスト者ではなく、当時の宗教指導者のことをさしています。本章の最後まで、こうした叱責をイエス様は続けてきたのはなぜでしょう。それは古の預言者の務めはまた、イエス様御自身の務めでもあったのです。つまり当然滅びに向かう人々にも等しく神様の御愛を勧め説く必要があったからです。「言うことを聞かないのなら、どうにでもなれ」という投げやりなお気持ちではなかったのです。