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マタイの福音書23章-1

マタイの福音書23章-18(1~12節)
=本章の内容=

❶律法学者・パリサイ人への警戒

=ポイント聖句=

あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(23:11~12)

=黙想の記録=

イエス様の教えは決して聖書に反するものではありません。一方、当時の宗教指導者が行ってきたことは、この聖書に自分たちの都合に合わせた解釈を付け加えることでした。それこそ聖書の意に反することだったのです。
●この部分は聴衆は群衆と弟子たち向けの者です。イエス様は、「聖書の核心部分からだいぶずれている」当時の宗教指導者の様子を説明し、「彼らに倣うな(まねするな)」と忠告しています。「聖書に秀でる」ことが、いよいよ聖書の教えを形骸化させる事で、一般のユダヤ人から信仰を遊離させ、畏敬すべき神さへも見失わせる結果となっていたのです。ですが、ここでは神学論争より、単純な様々な外見から、彼らの「形だけの信仰生活」が露呈していることを説明しています。
●「倣う(まねする)」はギリシャ語では「poieo(ポエオ)」、で、獲得する・行動する・約束するなどの意味があります。つまり、宗教指導者は模範的・理想的・美的な言葉を流ちょうに使って説明はするのですが、彼らの生活は倣うに値しないのです。ある基督者は、言葉を優先し、行いが伴わない状況がよく見て取れます。それでは全く説得力がないのです。
①「モーセの座」とは、争い事をさばく裁判官の席という意味です。各会堂には特別な席が設けられ、そこで民事や小さな刑事事件の判決を下していました。そこに座すことのできる人はわずかです。しかし当時の裁判は正義や公平さのかけらもなく、袖の下に収まる金額で、訴訟を「起こされた側」か「起こした側」かに軍配が決まってしまうのでした。さらには、偽証者を立てることなど日常茶飯事でした。こんな不公平な判定のために聖書が使われるのなら、聖書は読むに値しないと思うようになるのは当然な成り行きです。
②「重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せる」の「束ねる」はギリシャ語で「desmeuo(デスムオ)」で結びつける・結合するが本来の意味です。裁判の席では、袖の下をもらっている側の為に、聖書を都合の良いように解釈し、無理やり関連付けて、判定内容に結びつける様子がうかがえるのです。さらに、会堂で教えるときは理想論ばかり立て並べるですが、実際は何も実行していなかったのです。「隣人を愛せよ」と唱える教会に限って社会活動に全く関心がないことが多いものです。「無言の言葉」を持つ基督者や教会の方が余程説得力・影響力があるのです。
③「彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりする」この文は「一休さんの袈裟の話」を彷彿とさせます。つまり中身のない人間ほど虚勢を張りたがる、あるいは、外見で人の良しあしを判断しやすいことを言っています。△大卒・△社勤務・△歴任などの肩書で人前に出るのも同類です。同窓会で名刺を配る輩は、同級生から煙たがれるのと似ていませんか。キリスト教教職者によくあらわれる症状です。
④「宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。」ここまでくると嫌味以外の何物でもありません。こんな現象が日常的な教会は教会とは呼べなくなります。
●8節から12節は、基督者にとって、日常でまた教会生活の中で如何なる信条で歩むべきかをまとめています。教会生活では特に必要な信徒の関係性です。それは第一に「師弟関係ではない」ということです。第二に「親子関係ではない」ということです。そして最後に「人に仕える者となれ」ということなのです。また「人に仕える」のに必要な人格はどこまでも謙遜であることです。