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マタイの福音書22章-3

マタイの福音書22章-3
=本章の内容=

➍一番大切な戒め➎ダビデの子

=ポイント聖句=

それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。(22:46)

=黙想の記録=

●「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」がどうして復活の事実を説明した物なのでしょうか。その前にサドカイ人について説明します。当時のイスラエルにはパリサイ派、サドカイ派、ヘロデ党、熱心党という集団が存在していました。サドカイ派は、第二神殿時代の後期に現れ、AD70年のルサレム神殿の崩壊と共に姿を消したユダヤ教の一派です。レビ族アロンの家系で、祭司としてエルサレム神殿で動物犠牲を執り仕切る宗教的指導者となりましたが、祭司選出の基準となるモーセ五書の順守だけが、彼らの生活規範だったわけですが、実際は、祭司選出の権限を持つローマ人との馴れ合いの道を歩み、うまく世渡りをしていこうとするだけの人に成り下がっていたのです。これがユダヤ社会の支配者的立場の人々だったのです。アブラハム契約をご存じですか。『ロトがアブラムから別れて行った後、主はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。(創世記13章14~15節)』がそれです。ところが、アブラハムが死んだ時点では、「あなた」と「あなたの子孫」に約束された土地は与えられていないのです。与えられたのはヘブロンのマクベラ(妻さらの墓地として)のみ。つまりこの約束が果たされるまでアブラハムは生き続けていなければならない。ここが重要なポイントです。「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」と言われたのは齢80歳のモーセに向かって出エジプトの大事業を命令したときです。つまり、モーセもまたモーセの時代にも有効であった「アブラハム契約」を遂行するために遣わされたわけで、この時も「アブラハム」が生きて存在しているからこそ契約が実行されることを意味しているのです。この個所の解説の中で①「の」についての言及や②過去形の文章構造をしているとの話を見つけましたが、ヘブル語にもギリシャ義にも、「の」という助詞も、「過去形の文体」も見つからないのです。
●イエス様は「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:4~5)」を使われました。「愛する」という単語はヘブル語でアハブ(アヘイブ)で、男女間・家族間・友情など広範囲に使われています。イエス様が、「父なる神」と言う呼称を使われたことや、「主を愛する」という言葉を取り上げたのは、「神様と人との関係」を深い信頼と言う絆で結ばされていることを説明したかったからです。また、その後に続く「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」は、律法は確かに人間としての行動規範です。しかし、それ以上に神様が人の保護者であり慈しみをもって接してくださっているかを教え諭したのがこのモーセ五書なのです。ところが律法学者は、慈愛に満ちたこの書を、他人を断罪し、差別化する道具にまで貶めていたのです。
●「主は私の主に言われた。」は詩篇110:1を引用されたものです。「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」(22:45)とイエス様は、今まで散々論争を仕掛けてきた律法学者にこの質問で切り返します。イエス様の時代、子供は自分の父のことを「主」と呼ぶことはあっても、父は子供を「主」と呼ぶことはありません。メシヤは「ダビデの子(子孫)」と呼ばれていますが。父祖に当たるダビデが、「私の主」と呼ぶことには矛盾しているのです。つまりダビデは、自分の子孫にあたる者たちのうちから、「自分より上位にあたる者=神」である存在が出てくることを敢えて、ダビデの口を通して語らせたのです。律法学者はこの回答とそれが意味する者が何であるかを熟知していました。しかし、この世の利権利得にしか目が向いていない彼らには真実が見えませんでした。
●現在の基督教指導者にもこうしたことが起きてはいないでしょうか。枝葉末節な論争で他者との差別化を図ろうとするのは、その背景に「自分の為」という利害意識は働いていないでしょうか。