最新情報

マタイの福音書21章

マタイの福音書21章
=本章の内容=

➊エルサレム入城➋宮きよめ➌いちじくの木➍権威はどこから➎ぶどう園の主人の譬え(1)二人の息子(2)悪い農夫

=ポイント聖句=

21:43だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。

=黙想の記録=

●エルサレム入城と共に、いよいよ最後の一週間に突入しました。4福音書すべてでこの事件を取り上げています。マタイはヨハネは入城の際に使われた「驢馬の子」をフォーカスしています。イスラエル史上エルサレムに家畜の背にまたがり入城した人物は「ダビデ・ソロモン・イエス様」の3人です。ダビデは驢馬(ろば)、ソロモンは騾馬(らば)、そしてイエス様は驢馬の子だったのです。驢馬は耐久力のある家畜であり軍馬です。騾馬は驢馬と馬の混血種で繁殖はできません。したがって大変高価です。「驢馬の子に乗って入城」したことの意味は、驢馬の子が軍馬になれないことから「平和」を意もしています。さらに、驢馬の子に乗った場合、イエス様は群衆の目線より低くなることから「謙遜」も意味しています。マタイは、このことを通し、イエス様こそ、まぎれもないユダヤ人の王つまりメシヤであることを主張しているのです。
●宮清めは、イエス様の最後の一週間の第二日目です。捧げもの自体に問題があるのではなく、ローマ貨幣からユダヤ貨幣に両替をする行為や、動物を商売の道具として正々堂々と売りさばく行為を責められたのです。本来これは宮で行うべきものではありません。もしイエス様が社会変革を起そうとするリーダーであろうと思ったのなら、こんな波風を起すようなことをせず、宗教指導者に忖度する振る舞いをしていたことでしょう。イエス様は宮の中でも積極的に癒しの奇跡を行います。本来宗教指導者が「主なる神」を頼って来くる者たちに対して、率先してこうした治療行為を行うべきなのです。しかし彼らは自分の既得権を奪われることばかりに気をもんでいたのです。「癒しの奇跡」では何も言えないので「ダビデの子(メシヤ)」と叫ぶ子供たちのことをやり玉にあげようとするのです。まるで子供じみています。この背景には民衆への恐れがあるからです。
●「何の権威によって」と言う質問に、権威の所在を明らかにさせようとしました。「神」と答えれば「自分を神と等しい存在とする」ところから、即、「不敬罪」となり、答えられなければ、「魔術師のひとり」そして「ただの成り上がり者」を決めつけようとの意図があったのです。ところが、イエス様は質問で切り返します。「指導者たちの拠り所がどこにあるのか」を問いただしたかったのです。そもそも、彼らの言う権威とは「誰に師事していたか」程度の物だったのです。彼らはさらに面目を失うのです。
●時間経過の途中で「実がなっていないいちじくの木」の話が挿入されています。イエス様がエルサレムに入城されたのはニサンの月(3~4月)つまり春です。一般的に実が熟すのは夏(6~7月)と秋(8~10月)の二回で、春になるのを「初なり」と呼びます。甘味があまりなく小さいのがこの初なりで、主に農夫たちが食し、これをもぎ取らないと、夏秋に大きな実がならないのだそうです。このいちじくの木は、律法学者たちをさしています。今イエス様が見ているいちじくの木は「葉っぱばかりが目立ち、実のならない不良品のいちじく」だったのです。つまりイエス様は時の律法学者が自分を大きく見せることに努力を傾けるものの、イスラエル人にメシヤに対する「信仰の実」をつけさせることができていない状態を非難されたものだそうです。
●後半部に「ぶどう園の主人の譬え」が2種類出てきます。第一は「ぶどう園の主人と二人の息子」の譬えですが、ルカの福音書の「放蕩息子」を思いださせます。当然「模範的な兄」は「宗教指導者」を、「できの悪い弟」は彼らが「罪深い者達」と呼んでいる人々のことでした。 第二は、「ぶどう園の主人と農夫」の譬えです。登場人物はそれぞれ、「ぶどう園」はユダヤ人を、「ぶどう園の主人」は父なる神を、「農夫」とは時の宗教家たちを、「しもべ」とは預言者たちを、「子」はイエス様のことを指しています。ぶどうの栽培は大変手間がかかります。耕地にはいくつもの条件が必要ですし、剪定・芽かき・害虫駆除などの大変時間のかかる世話が欠かせません。ここで言う収穫が意味するものは、神に従う民のことです。ところが宗教指導者たちはこの農作業をまじめに取り組まないばかりか、預言者を無視したり、迫害したりしていたのです。これは史実です。ついには、これから神の御子であるイエス様を十字架につけて殺すのです。長きに渡り、人間の作った権威に胡坐をかき、適当な指導をしてきた為に、この民は信仰も、神への畏れも育ってはこなかったのです。「そんなことがあってはなりません。」とは物語の不条理さに怒りを感じただけで、自分たちとは無関係を装っていたのです。「詩篇118:22家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」という聖句を引用し、メシヤとして来られた方をユダヤ人は拒否し捨て去ることを預言した物です。
●宗教指導者との対立はいよいよ激しくなっていきます。