マタイの福音書20章

マタイの福音書20章
=本章の内容=

➊ぶどう園の労働者➋キリストの死と復活の預言(3)➌ゼベダイの子➍盲人の癒し

=ポイント聖句=

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(20:28)

=黙想の記録=

●ぶどう園(旧約ではぶどう畑)の労働者の譬えは全章後半部にある「そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。(19:27)」の回答をかみ砕いて説明してくださったものです。論功行賞(ろんこうこうしょう)とは、「功績を調べ論じ、それに見合う賞を与える」という意味があります。19章のペテロが、十字架に架かる直前におられたイエス様を前にして、またまたしゃしゃり出てきたのです。大した犠牲を払ってはいないのです。またイエス様の弟子であった期間はまだわずか3年強なのです。これを以てペテロは論功行賞をイエス様に迫るのです。この時のペテロは、貧乏根性の塊で、イエス様の大事業のことなど眼中にはなかったのです。これが成長していない基督者の浅ましいところです。ここで着目すべきは、第一に登場人物が「労務者」であって「客人・消費者」ではないのです。基督者は、たとえ神の子としての迎え入れられることがあっても、この世では全員「労務者」なのです。父なる神様に仕えることが本分です。神様が与える「労務」には「軽重の違い」「複雑・単純の違い」がありますが、全て神様の配材で決まっていることなのですが、ここに出てくる労務者の様に、他の労務者に対して「妬み嫉み(ねたみそねみ)」に駆られる場合が基督者にもあるのです。それは「論功行賞」「年功序列」の精神のパン種が知らず知らずのうちに心に潜んでくるからなのです。「みばえのしない器官(コリント第一12:23)」とパウロが言っているのは、午後5時に召しだされた労務者のことを指しています。労働時間は少ないかもしれませんが、他の労務者の後始末という目立たない仕事を押し付けられたかもしれません。また、仕事をしながら食するぶどうの果実はもうそこには無いのです。1デナリは1日分の労賃です。誰にも分け隔てなく与えられるものと言えば、「人の一生」そのものでしょう。
●ゼベダイの子たちの母が「何もかも捨て健気にあなたに仕えているじゃありませんか。少しでも目をかけてあげてください。」とばかりに、イエス様に嘆願した気持ちは察して余りあるものがあります。ところがこの子供たちにしてこの母有りで「あなたの御国」の意味が、この二人にもその母親にも全く理解されていなかったのです。さらにイエス様がこれから飲もうとする杯が十字架刑であることを、困難が予想されるイスラエル復興の後の勝利の美酒と勘違いしていたのです。栄達の道には敏感であっても「神と人に仕え、人を幸せにする」ことこそ基督者の本務であることを受け入れない基督者がなんと多いことでしょう。
■ここに登場する盲人はバルテマイのことです。バルテマイはエリコ近郊に住んでいました。エリコは海抜マイナス250mの低地にある。「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、冬でも10℃を下回らない温暖な場所なので、家を出され身体障害者が野宿しても凍えることはないのです。さらにエリコは、祭司などが居を構える文教地域でもあったため、門前の小僧の様に、日常的に聖書が語られていたと想像できます。エリコは住みよい場所だけではなく、盲人の信仰を醸成していた場所とは言えないでしょうか。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」当時、ダビデ契約の政治色の強いメシヤとして「ダビデの子」と使われることがあっても、「救済の神」としての認識はほぼありませんでした。バルテマイは、律法学者が正典と認めていないイザヤ書にも関心があったように思えるのです。なぜなら、イザヤ書には、盲人を癒すメシヤの出現が、預言されていたのです。彼はイエス様の後をついて行くことを許された希少な障害者だった一人だったのです。
●「障害者だから、健常者より情報量は少なくなる」というのは間違えた考えです。五感に支障があっても、霊による信仰心がそれを補うように研ぎ澄まされているのです。み言葉を学ぶうえでの洞察力において、祈りの力において、聖霊による人格形成の点で、健常者以上の力を発揮しているのです。そしてこうした兄弟姉妹によって、あなたの信仰が支えられていると言っても過言ではないのです。