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マタイの福音書19章

マタイの福音書19章
=本章の内容=

この世にしがみつく人々➊パリサイ人と離婚問題➋幼子の親➌金持の青年➍弟子たち

=ポイント聖句=

すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」(19:16)

=黙想の記録=

●「ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方」とは、ペレアの領主でヘロデ・アンティパスの居住地です。この領主とその妻は人道に反した婚姻関係を持っていて、バプテスマのヨハネはそのことを糾弾したために投獄の末斬首されていたのです。ここでパリサイ人たちが切り出した「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」の質問には裏がありました。イエス様がバプテスマのヨハネと同じ土俵に立ち、この二人の婚姻関係について責めるようなことがあれば、たちまち兵士が飛んで来て、イエス様を捕縛し、バプテスマのヨハネと同じ運命を辿らせることになるのです。そこでイエス様は「結婚は神の前で結ばれる契約であり二人は切り離せないくびきをお互いに負っている。」と、創世記の記述を持ち出し、彼らの低レベルな結婚観を指摘します。当時、男性指導者たちは自分の栄達の為に政略結婚や離婚を繰り返していたり、平然と愛人を囲っていたのです。彼らには結婚・離婚を語る資格など始めからなかったのです。そこで彼らは、「そんな原則論を聞いてるんじゃない。」とばかりに「じゃあ、お聞きしますが、離婚状のことを書いてあるモーセの書はどう解釈するんですか?」と食い下がります。彼らが持ち出したのは「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ(申命記24:1)」のところでした。ここで言う「恥ずべき事」は不貞のことですが、その後の「気に入らなくなり」の解釈をめぐって、だいぶ男性寄りの勝手な解釈がなされていたのです。「食事がまずい、部屋が汚い」などの家事の良し悪しや今流の「性の不一致」も離婚理由になっていたのです。彼らは創世記に出てくる彼らの父祖たちの麗しい婚姻関係や、モーセすらも離縁した事実はないことを棚に上げているのです。さらに申命記24:5には「妻を喜ばせよ」の一文まであるのに、結婚の意義や感動は全く無視されているのです。ところで、弟子たちもこのパリサイ人に同意しているのにはあきれてしまいませんか。「男尊女卑ここに極まれり」という感がしてきます。「この結婚の意義や感動が理解でいない者は、離婚する前に結婚をしなければ良い」とまでイエス様は仰るのです。結婚が尊っとばられることは、神様の御愛を証しすることにもなるのです。
●イエス様に「触れる」という行為は、子供に「無病息災」をもたらして欲しいという親たちの当たり前の欲求です。これに対して、「イスラエルの再興を実現される方に気軽に触るな」との弟子たちの思いにも、自分たちは一般人と格が違うという顕示欲の表れで、どちらも心の中にも「自分だけは特別扱い」してほしいとの欲求があるのです。「子どもの様に神の国を受け入れる」の「神の国」とは、「王国の到来」を表しているのではなく、目の目にいるイエス様のことを指し示しているのです。今後イスラエルに悲劇が起ころうとも、イエス様のおられるところこそ不動の神の国であることを教えているのです。
●イエス様の元に訪れた金持ちの役人の話です。「ユダヤ教最高の先生」と敬意と称賛の言葉をもって近寄ったのですが、イエス様の説く「神の国」や「永遠のいのち」といった抽象的な事には何の関心もありません。この役人の関心は、「永遠のいのち」などという抽象的なものではなかったのです。ですが彼もまた弟子たち同様、金持ちであることをひけらかしながら、「成功者である自分を特別扱いして欲しい」と欲求だけがそこにあったのです。当時「金持ち」は「神に祝福されている」ことの証明と思われていたのです。イエス様が抜粋されたモーセの十戒は、後半部分で「人との関わり」を述べたもので、「神との関わり」の部分を敢えて省かれました。「永遠のいのち」の価値はこの世のスケールでは測りえないもの。全財産を失うようなことがあっても「永遠のいのち」はかけがえのないものでしたが、彼は天秤にかけ、こんな抽象的な世界では生きる甲斐がないと踏んだのです。「らくだが針の穴を通る」は「ありえないこと」を説明する譬えです。青年は物欲という重い荷を背負っていましたが、それを捨て去り永遠の命を持つことはこの青年にとってもありえないことだったのです。
●冒頭で論議を吹っかけてきたパリサイ人も、また彼の青年も、そして弟子たちも。この世にしがみ付いている限り、「永遠のいのちを受け継ぎます」の意味を理解できるはすがなかったのです