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マタイの福音書18章

マタイの福音書18章
=本章の内容=

➊誰が一番偉い➋つまずき➌主にある兄弟へのいましめ➍主にある兄弟の赦し➎しもべたちとの清算

=ポイント聖句=

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。(18:14)

=黙想の記録=

※マルコ・ルカの福音書の黙想を参考にしました。
●前章まで、イエス様が「ユダヤ人の王=メシヤ」であることの証明が書かれています。本章は「教会の絆を破壊する行為」を反面教師に使い「絆の深め方」を教えています。もうすぐ受難週を迎えると言うのに、「誰が一番偉いか」で言い争っている弟子たちの姿はイエス様ならずとも、悲哀さへ感じさせるところです。
●「つまずき」は何かに足先をひっかけ転ぶあるいは転びそうになることですね。「つまずき」は、ギリシャ語のskandalon(スカンダロン)[スキャンダルの語源]で、意味は「感情を害する、気にさわる、不快感を与える、〈宗教・道徳などの規範を〉破る、犯す、犯させる、名誉を汚すような不祥事。金銭や異性などに関係した、よくないうわさ。醜聞。」となっています。そしてつまずきを与える者は、「石臼をつけて海に投げ込まれる」とありますが、「死体を海の底に沈めてしまえば永久に浮かんでこない。埋葬も許されない。」と、これほどの重罪であることを表現したものです。99匹の羊の譬えは、教会の絆の鉄則です。「All For one」とはまさにこのことです。問題を起こした主にある兄弟姉妹のことを「自分でも迷い出たのだから、迷い出た者に自己責任がある。だから放っておけ。」とあっさり関係を絶つような教会を見聞きしています。この態度こそ「つまずき」なのです。
●「兄弟」とあることから、これは「信者間での問題」と思われます。「赦す」に至るためには段階があります。①戒める=ギepitimaō(エプテマオ)=「裁定する、非難する、鋭く警告する」②悔い改める=ギmetanoeō(メタナエオ)=「心を変える、心をより良くするために、過去の罪の嫌悪を心から修正する」② 赦す=ギaphiēmi(アフィーミ)=「立ち去る、無視する、手放す、議論しない、放棄する、離れて彼に任せる、相互の主張を放棄する」です。
●七度罪を犯しても=「何度も繰り返す、呆れる」との意味ですが、考えてみると、よほど身近な存在でなければ、何度も罪を犯す現場にいないはずです。ですから、近しい関係ほどこの赦しの段階を踏む必要があることを表しています。手の尽くしようのないことが分かっていてもそれをないものとするのは、よほど寛容な人物でなければできないことなのです。
●弟子たち相互の関わりの持ち方が述べられてはいますが、果たしてこの基準をクリアできる弟子が何人いたのでしょう。喧嘩っ早い弟子たちです。「つまずきの種を一切作らない」ことも「無際限に人を赦す」ことも実現不可能と思われます。ところが、この部分を神と人との関係で黙想してみると「毎日、私たちは、神様にどれだけ不快感を与えているのだろう、同じことを繰り返すのだろう、しかし神様は赦しておられる」と言うことになるのです。ここでイエス様が言いたかったのは、「神と人」との関係ではないでしょうか。「人との関係改善を図る」前にまず「神との関係改善」、そして「イエス様が示す模範をもって相互の絆を深める」ことを教えている箇所と思われます。

●「一万タラント」の譬えは同じ信仰によって兄弟姉妹となった弟子たちに「互いに赦しあう」ことの重要性を説いたものです。1タラントは6000デナリです。1デナリは1日の賃金です。日本人の平均年収は約450万円。週5日で52週ならば260日ですから、日当は約1万7千円。ですから1万タラントは1兆20億円となり、これは小国の国家予算に匹敵します。こんな巨額の国家予算管理を一個人に任せる国家などこの世には存在しません。冒頭で弟子たちは「誰が一番偉いか」と言い争った背景には、「お金と言うスケールでしか物事を計ることができない」浅ましい弟子たちの貧乏根性が巣食っていたのを見てイエス様はこの譬えをお使いになったのです。彼が何にこの膨大な借金を浪費してしまったのかは記載されていませんが、少なくともこの王様の国家の発展のために使ったのではありません。
●ここでの王様はこの愚かな人物を罰するために命をもって償わせることもできたはずです。当初王様はこの人物の「財産と自分と家族を奴隷として売りに出して返済せよ」と命じるのですが、この人物の懇願だけでこの王様は1万タラントの借金をあっさり免除してしまうのです。とかく私たちは借金の額に目が行ってしまうのですが、ここで大事なのはこの王様の「寛容な心」とこの人物に期待していた「国王との人間関係」また「この人物の周りの人々(彼らも王国の国民です)との人間関係」です。しかしここに登場する人物が持っていた人間関係はただのギブアンドテイクでした。ですから自分が不利な立場になれば仲間にたちまち借りを返させようとしたのです。ここに「友情などの麗しい関係性は微塵もなかった」のです。友情のかけらでもあれば、この難局をともに乗り切ることができたはずです。さらに預けられた資産の使い道を正しく知っていればこんな窮地の追い込まれることはなかったはずです。もとよりこの人物は預かった巨額の資金を何に使ったらいいのか王様にあるいは重鎮たちに相談するもしていなかったようです。つまりこの人物には国王や重鎮たちとの間に人として相談できる麗しい人間関係など構築されていなかったとも言えるのです。ですから彼を取り巻く人間たちにも同様な人間関係を構築できるはずがなかったのです。習っていないことを実行できるはずがないのです。私達基督者も同様です。イエス様が福音書の中で示して下さった人間関係つくりを学ばずに、どうして主にある兄弟姉妹との関係性をそしてあなたを取り巻くノンクリスチャンとの人間性を構築できるでしょうか。
❤この章で互いに赦し合う精神をイエス様は徹底して教えて下さいました。無条件で赦し合う精神がなければ主にある兄弟姉妹と言う関係性は生まれないのです。ですがこの「赦し合う精神」は父なる神様の赦しを数多く経験することなしにどうして学ぶことができるでしょうか。日々赦し合うためには、日々赦されていることを経験しなければならないのです。