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マタイの福音書17章

2025年1月21日

マタイの福音書17章
=本章の内容=

➊変貌の山での出来事➋悪霊憑きの子の癒し➌キリストの死と復活の預言➍宮の納入金

=ポイント聖句=

彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。(17:22~23)

=黙想の記録=

●変貌の山に連れてこられたのはたった三人(ペテロ・ヨハネ・ヤコブ)でした。この変貌の山にエリヤとモーセが登場させた意義などこの弟子たちには理解できるはずもありません。人がイエス様によって蘇生された事実は知っていても、結局「人は死んだら地に帰る」こと以外の死生観を彼らは何も持っていませんでした。モーセとエリヤは死んだのです。ですからここに登場すると言うことは「復活」して新たないのちを授かったとみる以外捉えようがなかったのです。ペテロなどはとんでもない光景を見て舞い上がってしまっていたのです。モーセは肉体の死を経験し天に召された人物の代表、つまり、第一の復活で甦る人々を表し、エリヤは肉体の死を通過せずに召された人の代表、つまり、空中携挙によって肉体の死を経験せずに天に召される人々のことを解釈される場合があります。
●「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」の質問は律法学者達の受け売りですが、「エリヤの様な人物の再来の気配すらない、メシヤもまた来ない」という意味が含まれています。律法学者がそう主張する根拠は「見よ。わたしは、主の大いなる日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。(マラキ4:5・6)」でした、つまり主の日=メシヤが来られ決着をつける前にエリヤが登場するということなのです。彼らの論法は「エリヤ再来の気配はない。したがってメシヤも来ていない。つまりイエスはメシヤではない。」と主張したかったのです。その後、イエス様は「マラキ書の預言が、バプテスマのヨハネの出現で成就していること、したがってメシヤは来ていること説明されています。ところが、メシヤはこの世で受難し、自らを犠牲にして罪を贖うという預言については、旧約聖書から読み取ろうともしません。ユダヤ王国復興、世界の覇者になる事だけを夢見ているのです。自分にとって都合のいいことだけ信じる人間の性でしょうか。自分にとって都合のいいことになる場合は徹底的に信じ様とするのですが、都合の悪いこと・予定通りにならないことには徹底的に目を瞑ろうとするのが人間です。「ゆだねます」と言っておきながら「自己都合によって道を進んで行く」状態もそうです。一度自分を十字架に付けたはずなのに、平気で降りてしまうのです。
●宣教報告は各自の自慢会でしたが、宣教報告が終わった直後に、弟子たちの宣教活動の体たらくぶりが暴露されてしまいます。悪霊に憑かれた子供の父親がやってきたのです。「お弟子たちにはできませんでした。」 の報告に弟子たちは狼狽えた(うろたえた)ことでしょう。彼らの報告には漏れがあったにも拘わらず彼らはその報告を他の弟子たちの手前ひた隠しに隠していたのです。もちろんこの人の息子は癒されましたが、弟子たちの目は曇らされ、イエス様の持つ神の力を思い巡らすことも、また素直にそれを喜ぶことさへ、できなかったのです。卑しい利得の追求しているときには神様の真実な姿を見ることができないことを教えているのではないでしょうか。「あなたがたの信仰が薄いからです。」の「薄っぺらな信仰」なら、サタンに内心を見透かされ利用されるのです。宣教旅行から帰って来た弟子たちの心を去来していたのは、御国での確固たる地位で、魂の救済のための奉仕では全くなかったのです。
●本来イエス様はメシヤです。その方が神殿税など納める義務はありません。イエス様は私達を父なる神様の子供という立場にしてくださいました。つまり王国の子供、王子の立場なのです。ですから、その王子達は税を納める必要はありません。ここでもペテロがしゃしゃり出てイエス様の見解を待たずに「納める」と答えてしまいます。そこでイエス様は。「彼らにつまずきを与えない為」と答えられては、小さな奇跡を行うのです。こんな些細なことで十字架の道を閉ざしてはならないためです。
17:4~
この個所疑問がたくさんある個所です。仮に自閉症スペクトラムの傾向があったとすると、飛び込むことに拘っていたとも解釈できます。あるいは火を潜り水に飛び込む宗教儀式に拘っていたともとれる個所です。何れにしてもこうした衝動に駆られるのは精神的に追い込まれている場合や何かスイッチが入る事件がこの人の身に降りかかったとも考えられます。悪霊が関与してるとすれば、親を含むその土地の人々の宗教儀式由来のものかもしれません。悪霊を追い出したイエス様の言葉は、この子供の親に対しての警告だったとも思えるのです。この子の親は他宗教の悪習に染まっていたのかもしれません。