マタイの福音書14章
マタイの福音書14章
=本章の内容=
➊ヨハネの処刑➋給食の奇跡➌湖の上を歩く
=ポイント聖句=そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。(14:31~32)
=黙想の記録=●ヘロデヤはアンティパスにとっては、異母兄弟の子、さらにアンティパスの異母兄弟であったピリポの妻であったにも拘わらず、不倫の末の婚姻関係です。ヨハネが責めたのは、二人の近親相姦と姦通罪です。前章でも取り上げましたが、ヘロデヤとヘロデアンティパスはとも倫理の世界ではなく、欲望と打算で生きてきた人物と言えます。サロメは、ピリポとヘロデヤの間に生まれた子供です。領主でありながらこうした破廉恥な行為は許しがたいものとこの両者をヨハネは糾弾します。バプテスマのヨハネの人気は絶頂期にあり、その影響で領民も領主を非難し始めていたのです。ヘロデヤはプライドをずたずたにしたヨハネへの憎悪の牙を向け、アンティパスに進言してヨハネを捕えさせます。長期間拘留すれば態度が改まると思っていたのでしょう。しかし、領民だけでなく、当時目立ち始めたナザレ派のイエスのヨハネ称賛の声もあり、いよいよ領民の信用を維持することができなくなるのを感じていたのではないでしょうか。私個人の想像ですが、アンティパスはヘロデヤとヨハネ抹殺の計画をすでにひそかに練っていたのではないでしょうか。サロメの官能的な踊り(現代のストリップ)に、アンティパスがサロメに色目を使い始めます。これも想像ですが、アンティパスが自分の娘サロメを寵愛するのではとの不安がよぎります。そこでヘロデヤはサロメの口で「ヨハネの処刑」を申しださせ、領民の怒りの矛先をサロメに向けさせることにより、表舞台から我が娘サロメを追放しようとしたのではないでしょうか。ドロドロした欲望と打算に満ち満ちた人間関係にはどこまでいっても不安は付き纏い、満足は訪れるはずがないのです。「人に猜疑心を植え付ける」これは詐欺師サタンの誘惑の手法なのです。
●「ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。」とさりげなく書いていますが、これは大変危険な行為です。このアンティパス・ヘロデヤの二人にしてみれば、バプテスマのヨハネ派を一網打尽にし抹殺する好機なのですから。この弟子たちの行為には欲望も打算もありません。ここでマタイは、「アンティパス・ヘロデヤ・サロメの人間関係の危うさ」と「ヨハネと彼の弟子たちの篤き師弟関係の麗しさ」を際立たせたかったのではないでしょうか。
●給食の奇跡が行われたのは「寂しいところ」と書かれています。つまり荒野です。荒野にはスーパーもコンビニもありません。たとえそんな店があったとしても、推定2万人(男性だけで5千人)分を短時間で用意できるはずがありません。弟子とイエス様のやり取りには「教え込むのではなく、自ら気づかせる」イエス様の教育的配慮があるのです。この奇跡はモーセの時代、神様は荒野でユダヤ人をマナとうずらで養ってきたときのことを思い出させます。荒野での給食の奇跡は規模も回数も今回のこの給食とは比べ物にならない壮大な奇跡です。弟子たちには荒野の奇跡は「単なる神話」程度に思えていたのでしょう。つまり当時与えられた聖書、幼少から叩き込まれてきたはずの聖書の知識は生きる神への信仰を産み出すことができなかったのです。もし弟子たちにその信仰が芽生えていれば、すかさずイエス様に助けを求めたことでしょう。弟子達には来るべき王国の主としてのメシヤ象はあっても、慈愛に満ちた神としてイエス様を見ることがなかったと言えるでしょう。ここでイエス様は「天を見上げ神を褒めたたえた」後に給食を開始されたと記されています。このモーションは荒野でのモーセと全く同じでなのす。聖書は史実を残したもの。そして聖書に書かれた奇跡は今でも十分に起こしえる。父なる神様は昔も今も変わらぬ慈愛の神であることを証明したかったのです。さらにモーセが出エジプトした数十万人のユダヤ人を約束の地に導いたのと同様自分を信じるものを確実に神の国に導くことができることを証明したかったのです。給食後集めたパンくずは十二籠にいっぱいでした。配給する前よりも多くなっているのです。この数字もまたユダヤ民族復興を暗示しているものです。
●水上歩行の奇跡は確かにイエス様が自然を統治されている神であることの証拠ですが、弟子にはそれが伝わりません。パンの奇跡は弟子たちに大興奮と期待を膨らませる結果となるのです。復興イスラエルの重鎮のポストを約束されるかのような錯覚が沸き上がるのです。彼らをクールダウンさせるために起きたのが湖での奇跡です。この時イエス様は敢えて同船されませんでした。暴風に翻弄されよもや転覆し、溺れ死んでしまう危機が迫っていました。来る王国の重鎮の話どころではないのです。彼らの脳裏には「こんなところで犬死するなんて。なんていう運命なんだ。」という諦めの心はあっても、主に助けを求める心の余裕がなかったのです。彼らには「救い主」としての姿は胡散霧消していたのです。イエス様を実体のない幽霊と思ったのも、その証拠です。イエス様が同船されると、自然の脅威が収まるのです。弟子たちはこの事件から、他の民衆とはワンステップ上の信仰に進むのですが、この世の誘惑は解消していないのです。