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マタイの福音書13章

マタイの福音書13章
=本章の内容=

①譬え➊種まき➋良い麦と毒麦➌からし種とパン種➍真珠➎地引網、②ナザレに戻る

=ポイント聖句=

イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。(13:11)
あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。(13:51)

=黙想の記録=

「御国」は英語で「kingdom」ギリシャ語で「バシライヤ」です。「王権、支配、王国を統治する権利・権威、王国、王の支配下にある領土」の意味があり、新約全体で63回使用されていますが、マタイでは何と43回も出てくるのです。さらに本章では12回も出てくるのです。このことから、本章は「神の国とは何か」を問う章です。ところが、ここでの「御国」は死後の世界を指してはいません。11節にある「天の御国の奥義」がこの章を読み解くカギになります。また本書では3種類の「種蒔き」の譬えが使われていますが、いずれも成長の為の時間経過があり、結末が描かれているところから、イエス様の地上再臨までの「教会を含む人類が辿るプロセス」を現しているものと推測できます。
●「種を蒔く人」の譬えは、イエス様自らが解き明かしている様に、「御国のことば」に対する人々の反応です。人々の心の状態を、「道端、岩地、いばらの中、良い地」と4種類に区別していますが、このうち実を成らせるのは25%しかないのです。「25%は本物の基督者で、残りの75%は未信者」とするのは早計です。「落ちた」「芽を出した」「枯れてしまった」「ふさいでしまった」との表現は、一度種が蒔かれ、瞬間でも「地に接触した状態」を言っているのです。さらにイエス様が解き明かされた言葉の中に、「悟らない」「つまずいてしまいます」「実を結ばない」の表現が出てくるところから察すると、「御国の言葉」すなわち「聖書」に触れたことのある人全員を指していると思われます。つまり、当時の、聖書の専門家であるパリサイ人やサドカイ人を含む、全ユダヤ人であり、イエス様の身近にいた弟子たちを指しているのです。
●パリサイ人やサドカイ人は「聖書をよく読んでいる」人々です。聖書をないがしろにする人たちではありません。ところが、彼らの聖書の読み方は「法規を読む訓練・覚える訓練」でした。「聖書を読む」とは「読むという作業」のことだけではありません。「読む」だけでは、他宗教の信徒が毎日行っている「お題目を読む」のと全く同じです。ここは何について書かれているのだろうか、教訓とすべきことはないか、私の生活に適応できることはないかなどを「黙想」する。黙想を伴ったデボーションこそ「正しい聖書の読み方」なのです。黙想を伴うわけですから何も「早く読む・規定量を読む」必要はありません。1週間かかってたった1章分しか読むことができなくても良いのです。素人の聖書黙想法をぜひご一読ください。
●「悪い者」とはサタンのことを指していますが、私たちの肉欲を掻き立てることを常套手段としています。「目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢」がこの世の欲(ヨハネ第一1:16)とありますが、当然「食欲、性欲、情欲など」も含まれてきます。この世の欲が心にのさばっている様なら、みことばをはねつけてしまうのです。つまりこの状態が、道端です。
●パリサイ人たちは自分たちが受けてきた伝承に固執していました。自分たちが教育されてきた教理以外は邪道なのです。「誰に師事してきたか、聖書教理をどれだけ知っているか」が彼らのスケールで、聖書を自分のものとして咀嚼していない状態のことです。つまり、これが「薄い岩地」の状態なのです。この状態では、上質な条件が失われてしまえば、たちまち霊的枯渇に陥るのです。
●一見良い畑の様に見えても、良く耕されていない耕作地つまり、「いばらやあざみ」などの雑草を取り払われていない状態なら、成長の早い雑草に畑を支配されてしまうのです。同様に私たちが良い実を結ぶための「神様の試練や訓練」を極力避け、「より快適な生活」を追い求めている状態をいっているのです。
●稲作を実際にしている人から「一粒の米粒から30粒、60粒とれるのは当たり前で、100粒も取れるようなときは豊作の時。」と聞いたことがあります。ここで大事なことは、元になる一粒は跡形もなくなってしまうことです。「他者の為に尽くす」生き方より「自分の人生を大事にする」のでは実を成らせることはできないのです。「滅私奉公」は現在では死語になっていますが、まさに御国を受け継ぐものの生き方は、「己を捨てる」ことなしに、実を成らせることはできないのです。またよく耕された畑とは神様が直接介入される耕作作業によってのみ獲得される私達の心の状態のことを指しています。よく耕されるためには地中深くまで掘り起こされる必要があります。雑草を抜かれる必要があります。では私達が良質の畑であり続けるために必要なこととは何でしょう。それは「神様が用意された数々の試練」にわが身をゆだねることです。逃走してはならないのです。
●「毒麦の譬え」や「からし種の譬え」は、教会の成長における種々の障害を語られたものです。教会には必ず毒麦が入り込む可能性があります。それは単に異端と呼ばれるものだけではありません。毒麦は良い麦に変化することは決してありません。聖書にそぐわない教理を持っている者それが毒麦です。さらにからし種とは、教会が規模化することの譬えと思われますが、規模化すればするほど、「空の鳥」つまりサタンが漬け込む余地が出てくるのです。
●「畑に隠された宝」「良い真珠」が表現しているのは「み言葉に対する飽くなき探求心」のことです。私達は「みことば」にどう向き合っているでしょうか。「聖書を読むことが毎日の私のお勤(つと)め」では他宗教と何ら変わらないのです。