マタイの福音書12章
マタイの福音書12章
=本章の内容=
①安息日論争➊麦の穂事件➋癒しの行為、②パリサイ人の罪➊ベルゼブル論争➌ヨナと南の女王
=ポイント聖句=群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」 これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」(12:23・24)
=黙想の記録=※今回の記録は、マルコ・ルカの両福音書の黙想をもとに掲載しました。
●公生涯がスタートし、みるみる人々が集まってきても、ユダヤ人にとっては単なるユダヤ教の一派と目されているだけでした。(使徒24:5参照)しかも、イエス様はその首領とされていただけです。「この一派の主要目的は何か、自分たちの生活に影響はないのか」と興味津々だったのがユダヤ教指導者でした。しかもこのグループには教養のない連中ばかり、また財力のない者たちばかりが集まって来ていたのです。ですからユダヤ教に精通する者にとって、鼻につくこの連中を何とか抑え込みたいとの思いから「安息日論争」を吹っかけてきたのです。
●麦の穂を手で磨り潰して食べるなどと言うことを弟子たちは常習的に行っていたようです。指導者にすれば、「イエスの弟子どもは田舎者」にしか映っていないのですが、これ幸いと、この一派の芽を摘む行為に打って出ます。「安息日に麦の穂を摘むとは何事か。これは律法への違反行為になるぞ!」と牙を向けます。ところが聖書に精通しているはずの彼らは、かえって大恥を掻くのです。「ダビデとその一行は、本来、祭司しか食べることを許されていない「神殿の聖別されたパン」をアヒメレクからもらい受けるのです。しかもこの日は何と「安息日」です。(サムエル記第一21章)特例はすでにあったのです。でも、違反行為ではないのです。
●手が萎えている人は普段から会堂に来ていました。ルカの福音書でパリサイ人はここで彼を「じっと見ていた」とありますが、この人への同情はおろか、関心さへ全くなかったと言えるでしょう。彼らの関心はもっぱら会堂に集まってくる財力のある人々の献金の額だけでした。彼らにとっては、この既得権を奪われそうになることが心配なだけで、「安息日論争」はイエス様から人々を連れ戻す、起死回生の方法と思われたのです。しかしこれも空振りに終わってしまいます。「パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。(12:14)」と、イエス抹殺計画がスタートするのです。
●ベルゼブルの話のところは、当時平然と行われていた魔術のことを指摘しています。イエス様がこの魔術を使って悪魔払いをしていると非難しているのです。「悪霊払い」をユダヤ人もしていた事実があります。(使徒19:11~20節)ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちは「魔除け祈祷師」になっていたのです。ここでイエス様は、彼らの論理の破綻を指摘しています。ベルゼブル(悪魔の親分)が悪霊の子分を追い出すというなら、悪魔が「内輪もめ」「仲たがい」していることになるわけです。ならば、悪魔祓いをしていた祭司の息子たちを非難することは、お互いの利権が絡んでいるので不可能です。それを実行してしまえば「内輪もめ」になってしまうからです。耳も口もそして目も使えない三重苦にあったこの人が、その不自由から解放されたのです。パリサイ人の論理で言えば、悪霊を負い出せても、悪霊の頭が命じれば、再び三重苦を背負うことになってしまうのです。この三重苦を背負った人から悪霊を負い出せたのは、まさしくイエス様と共におられる聖霊なる神様の力です。ですから、この完全な癒しの業を否定する者は聖霊の存在をも否定することになるのです。
●ところが振り返って、イエス様に議論を吹っかけているパリサイ人とは何者なのでしょう。ここでイエス様はバプテスマのヨハネも使っていた「まむしの末」と彼らを断定しています。つまり「サタンの子孫」と言っているわけです。人を騙し、他人を利用し、傷つけても無関心で、さらに冷酷極まりない、そして最終的に滅びに引きずりこむ存在それがサタンです。パリサイ人が民衆に行っていた行為こそまさにそれなのです。悪い木ですから、人に尊敬される人格をその実として成らせることも、悪い蔵ですから他者に笑顔を配り歩くことも潤すこともできないのです。
●ヨナと南の女王の話が挿入されますが、これらはバラバラの内容ではなく、9月~12月にあるユダヤの祭りのときに取りざたされるものです。
①ヨナ書は贖罪の日に朗読される書物で、ユダヤ人に一年間の罪を悔い改めを迫る日でした。
②ソロモンに宿った神の知恵に驚嘆するシバの女王の話ですが。これは仮庵の祭りのことを表現したものです。つまり、肉体は一時的な仮住まいです。そこに私たちは神の生ける神の知恵、つまり聖霊を宿しているということを表しているのです。
ユダヤの祭はもともと父なる神様を身近に感じる好機であったのに、それを不可能にしたのはパリサイ人だったのです。