マタイの福音書11章

マタイの福音書11章
=本章の内容=

➊バプテスマのヨハネ➋町々への警告➌呼びかけ

=ポイント聖句=

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(11:28~30)

=黙想の記録=

●マタイは本章からしばらく、イエス様がユダヤ人が待望していた「メシヤ」であることを「預言者や預言書」を通して証明しています。本章では最後の預言者バプテスマのヨハネを通して、その展開を行っています。ポイント聖句は元来「主の奉仕をしている者」に与えられたものでした。
●マタイは本章で、イザヤ書 40章3節を使い、バプテスマのヨハネを「荒野で呼ばわる者の声」として紹介していますが、すでに彼はヘロデ・アンティパスによって投獄されています。このヘロデアンティパスはローマで育ち、相当な策士で、ヘロデ大王の後継者アケラオを引きずり下ろし、戦うことなしに四分領太守に任命され、イスラエル北部の領主をせしめます。ローマ従属国のナバテア王国と友好関係を結ぶ為、国王の娘を妃に迎えいれます。ところが、異母兄の娘ヘロディアに熱を入り上げた結果、最初の妃を実家に追い返してしまいます。これに激怒したナバテヤ国王が戦争をしかけますが、運よくローマによって国王が捉えられ一件落着します。ヘロディアはヘロデ大王とその3番目の妻で大祭司の娘との間に生まれた子供でアンティパスとは異母兄弟の関係でした。彼女は相当計算高い女性であったため、当時の夫ピリポと離婚し、アンティパスに鞍替えしてしまいます。
ヘロデ・アンティパス——①(政略結婚)ナバテア王国王女→実家(故国)に戻す
②(略奪結婚)ヘロディア←元夫ピリポ
14章にその詳細が続いていますが、「領主たる者が、このような破廉恥な行為をしてよいのか」と、世間に向かって告発します。それを聞き及び怒りに燃えたのがヘロデヤです。制裁を科すため、夫を介してまんまと捕縛させてしまうのです。そして特別な罪状をつけずにヨハネを長期間投獄するのです。この辺りは、ダビデとその妻バテシェバを彷彿とさせるところです。
●この時すでに投獄から、だいぶ経過していたようです。一説によると一年間。投獄されていても、弟子たちと面会ができる自由が許された場所であったため、イエス様の宣教活動を逐次耳にしていました。ところが、自分の想像したメシヤ像とはだいぶ異なる活動を展開するので、彼は次第に不安に駆られます。彼の胸に去来するのは、「イスラエル復興という意を同じにしているのに、自分に接触もして来ないのはなぜ。洗礼まで施しその際、三位一体の神を具現化させた立役者は私だ。ではそれは何の為。神の力で、世直しをしようとしないのはなぜ。」彼は、ついに業を煮やし「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」の言葉を弟子たちに託してイエス様の元に送ります。ヨハネは、預言者の自覚を持っていたとは言え、投獄の果てにいつしか訪れるであろう処刑が現実味を帯びていくことに、何よりも恐怖を感じ取っていたはずです。ところが、イエス様は「遅くなることはない。きっと助け出すから。」とは応えず、イエス様のなさった奇跡について熟考せよとばかりに、「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」と突き放す様に応答するのです。これらの奇跡はイザヤ書の引用です。この引用には「数々の癒しの業は古から預言されていたメシヤとしての資質であることの証明ではないか。さらに預言されていたメシヤの最大使命は自らの体をもって贖罪の死を遂げることではないか。」の意味が込められているのでした。ヨハネの弟子たちはこの言葉を持って引き返していきます。
●ところが、弟子たちが持ち帰ったこの答えは、ヨハネを失望させるどころか、彼の目を開かせ、目前の死をも毅然とした態度で迎えさせるための、重要なメッセージでもあったのです。それは「目前に迫るヨハネの死は単なる通過点であってゴールではない。死にも打ち勝つ「永遠いのちの源であるメシヤ」がここに存在する。」ということにありました。この時点を以てヨハネは預言者として潔く散っていくことを決意するのでした。
●弟子たちが戻って行ったのを見極めイエス様は「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。」で始まる最大限の賛辞を贈るのです。しかし、これはこれから残忍な死に方をするヨハネへの手向けの言葉だったのです。残念ながら、時の経過は姿を隠したバプテスマのヨハネの存在さへも、忘却の彼方に追いやってしまっていました。コラジン・ベツサイダ・カペナウムに何度も足を運ばれたにもかかわらず。ヨハネの活動もイエス様の奇跡の数々も、民の信仰復興には至りません。それほどまでにイスラエル国民には信仰への意識がなかったのです。
●休みを欲していたのも、肩の荷を下ろしたかったのも、イエス様の方です。全力を尽くして歩き回られたイエス様の労苦は何だったのでしょう。マタイは、この時のイエス様の思いを思い返し本章のまとめにしました。「疲れた人、重荷を負っている人」の代表例は、懸命に神様に仕え抜いたバプテスマのヨハネでした。彼の様な人物こそが、魂のやすらぎを受けるのにふさわしい人だったのです。神様の与えてくださった尊い奉仕を遂行するもでなくては理解のできないことばです。「力によるイスラエル国復興」ではなく、「魂の安らぎを持つ信仰の民イスラエル」に戻すことが真のメシヤ、真のユダヤ人の王の務めなのです。