マタイの福音書10章

マタイの福音書10章
=本章の内容=
➊十二弟子の選定と派遣➋宣教に備えて➌弟子になることとは
=ポイント聖句=自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(10:38・39)
=黙想の記録=●ヘブル語のシメオンがギリシャ語化したのがシモンです。シメオンは「聞く、耳を傾ける」と言う意味があります。ところでシメオン族は、イスラエルの12氏族の一つですが早くからユダ族に吸収されていました。シメオンはシェケム事件(創世記34章)を引き起こした張本人です。この為、ヤコブは祝福の言葉の中で、シメオンとレビだけには「二人の子孫は、イスラエルの各地に散らしてしまおう。(創世記49:7)」という呪いをかけていたのです。バビロン捕囚以降は、このシメオン族を含む10部族(ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族)が歴史上から消えていきます。バビロン捕囚以前にシメオン族は消えていたので、失われた10氏族の筆頭とも言えます。すなわち、このシメオン族が見つけ出されていくことは、「イスラエルの回復」につながることなのです。「ペテロと呼ばれるシモン」を他の弟子に先駆けて召したのにはこうした深い意味があったのです。つまり、「シメオン族を回復できるものこそ、ユダヤ人の王であることの証拠である」とマタイは主張したかったのです。そこで、「12人の弟子を選び出す」と言う行為には「新たなイスラエルの回復」の意味も含まれているのです。
●イエス様は、ペテロを「岩」と命名するのです。この岩は旧約では123回も使われていて、堅固な物、不動な物として、神の力強さを表現するときに使われています。こうした意味で考えると、シモンの様に、粗野で不完全極まりない者達を選び出し、教会の基礎とすることをイエス様は始めから計画されていたのです。
●1節の「弟子」の呼称が2節では「使徒」に替えられていますが、これはイエス様自らが父なる神様から使わされた者であったことに由来しています。「弟子つまり習う者」から、「使徒つまり使命を果たす者」に変化を遂げていく姿をマタイが暗示していたものと思われます。本書には出てきませんが、12使徒の派遣の後70人の弟子が再度派遣されますが、12使徒を派遣した際の様々な失敗への問題点の指摘も含まれています。
①「空っぽの胴巻き」「空っぽの旅袋」は、宣教に必要な物は物質的なものではないことを自覚させる為ですが、同時に、家々を渡り歩き、平然と金品をねだって、それらを満杯にして戻ってくるなという注意も含まれているのです。宣教は金儲けの手段ではないのです。
②「その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。」とは、議論をするため、あるいは揚げ足取りなどを行いマウントを取るためにでかけるのではない。「平安を届けに行く」ことを念頭に起きなさいと言う意味なのです。
③「狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」とは、狼のような粗暴で威圧的な人物に対し、身構えて攻撃的になるのではなく、策を弄して立ち向かうのでもなく、知恵を尽くして純粋素朴な思いで接することを意味しています。
④やがて使徒たちに襲いかかる本格的な苦難の時が来ることを預言されています。が、同時に何かを失うようなことがあっても、冷静さを失い、絶望する必要がないことを「たましいまでは殺せない」「一羽の雀」「髪の毛の本数」の分かりやすいたとえを持って説明されています。
⑤最後は「弟子とは何か」を確認させている者です。この中で「自分の十字架を負う」とは、「自分に課せられた苦難を背負って生きよ」の意味ではありません。「十字架」はイエス様の受難の場所であり、私たちが背負えるものではないのです。ここで言う十字架は、「古き人(肉の欲求)を十字架に釘付けなさい」という意味です。多くの方がこの聖句を間違えて解釈しているようです。