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マタイの福音書9章

2024年8月24日

マタイの福音書9章
=本章の内容=

奇跡リスト②➊中風の人➋マタイの召命とヤイロの娘の蘇生➌長血の女➍二人の盲人➎悪霊憑き

=ポイント聖句=

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。(8:36)

=黙想の記録=

●8章の奇跡は「イエス様がユダヤ人の王である」ことの証明でした。本章では「イエス様が善王として数えられる」ことの証明です。歴代のユダヤ人の王には悪王と善王がいました。本章はイエス様が、国王として国民に果たすべき義務と、如何にその国民を愛しむ王であるかを紹介しているところです。
●中風の男性に「子よ。」と呼びかけられました。国民を臣下として捉えるのではなく我が子の様に慈愛をもって保護する善王として表現されているのです。当時あらゆる病気は何らかの罪を犯した結果であると結論付けられていました。律法学者は国民に君臨し、ただ傍観したり非難するだけで、国民の罪に無関心でした。律法学者は、人々を有罪か無罪かの判決しかできなかったのです。これに対してイエス様は、「神の民の犯した罪に関してわが身でその罰を受けようとする受難のメシヤ」となってくださるかたでした。罪を赦すことができるのは、自らを贖罪の子羊として父なる神に捧げられるイエス様しかいないのです。
●取税人の召命と会堂管理者の娘の癒しには一連の流れを汲みとれます。取税人はローマの手先として人々から搾取する罪人と数えられる存在です。一方会堂管理者は、ユダヤ教教育の中心人物として周囲の人々から尊敬される存在でした。この両者を引き合いに出すことにより、「イエス様は全ての国民に公平公正である善王である」ことを表現したかったのです。「丈夫な者と病人」「あわれみといけにえ」「正しい人と罪人」と人を線引きしたがるのが古き人です。さらに断食などの慣習や慣例にがんじがらめにされているのも古き人の性質です。ここでイエス様は驚異的な言葉をもって、国王と国民との関係性を宣べています。それは「花嫁と花婿」という婚姻関係です。臣民でもなく、同胞でもなく、友でもなく、「花嫁」として、愛を惜しみなく示す善王であることをマタイは伝えたかったのです。
●十二歳の娘と十二年間病に冒されていた夫人をここで引き合いに出したのも偶然ではありません。不幸は年齢にかかわらず一瞬にして起こるものであり、不幸は長期間にわたり人を悩ますものです。ここで見逃してはならない言葉が、会堂管理者の「ひれ伏して」という行為であり、長血を患っている婦人の「着物のふさにさわる」と言う行為です。ひれ伏す行為は、相手に対する最高の敬意です。会堂管理者たるものが、人間を伏し拝むなど考えられない行為です。彼はイエス様を「人以上の存在」として認めていることになるのです。ユダヤ人男性にとって「着物の四隅に青い『ふさ(ヘブル語でカナーフ)』をつける」ことで、神の民ユダヤ人として神の戒めを守るという意思表示(民数記15:38–40)で、女性には身に付けることは許されていません。この病の為、この婦人は表に出ることさへ控えていました。彼女はイエス様の素肌に触れず、このふさに触れたのです。この行為には意味があります。「・・・その翼には、癒しがある。」(マラキ4:2)の翼は、ヘブル語で「カナーフ」。翼と言う意味の他に「衣服のすみ」という意味があるのです。つまり、ふさを触るという行為には、「生ける神の恩寵に預かりたい」との意味があるのです。この二人の人物の行為は、イエス様を慈悲の心を持つ国王として証明だったのです。
● 悪霊を負い出す奇跡は、ユダヤ人を二分していました。それはイエス様が「メシヤ」であるのか「悪霊の頭」なのかということでした。自然の成り行きから言えば前者でしたが、ユダヤ人の人気をかっさらせて、既得権を奪っていくイエス様は、パリサイ人にとって邪魔者であったのです。8・9章でユダヤ人の王であることを見せつけられてきたのに、彼らは、イエス様を排斥しようとすることをマタイはここに締めくくっています。パリサイ人のこの狭量なこころに比較して、ポイント聖句にある「羊飼いのない羊」と語られたイエス様に、マタイは、ユダヤ人に対する本物の国王としての深い慈愛を示していたのです。