マタイの福音書8章

マタイの福音書6章
=本章の内容=

①奇跡リスト➊ツァラアト罹患者➋百人隊長のしもべ➌ペテロの姑➍大勢の人々➎役人の息子➏嵐を鎮める➐ゲラサの悪霊つき

=ポイント聖句=

「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。(8:9・10)

=黙想の記録=

※ツァラアトはハンセン病のことですが流れを分かりやすくするために敢えて「ライ病」を使わせていただきます。
●8章(7つ)9章(5つ)はイエス様の奇跡が集中して記録されています。この章は単にイエス様の特殊能力をクローズアップしただけの箇所ではありません。それぞれの奇跡はイエス様がお持ちの権威を裏付けるものでした。ユダヤ人の王ならどんな権威を行使出来たかを証明したものです。
●本章・マルコ1章・ルカ5章に登場するライ病人は同一人物です。ライ病は現在「ハンセン病」と呼ばれています。らい菌によって、主に皮膚や末梢神経が侵される慢性の病気です。毒性が非常に弱く、感染しても発病することはきわめてまれです。1943年のプロミンに始まる治療法の発達によって、確実に治る病気となりました。しかし、治療法がなかったこの時代には、この病気は不治の病と考えられ、顔面や手足などの後遺症がときには目立つことから、恐ろしい伝染病のように受けとめられていました。民数記やレビ記に規定によれば、祭司によって「汚れた者」と宣言され、徹底的に社会から隔離を迫られていました。この人の様に全身ライ病とわかる患者が外出して単独で町をうろつくなど言うことなどまずありえないことです。旧約では度々、神ののろいや刑罰の結果として表現されていました。つまり身体的な苦痛だけではなく、「神にも呪われた人」とのレッテルまで張られ精神的な激痛も伴うものでした。ところで、旧約の規定では、ツァラアト罹患者を「清い者」と宣言できるのは祭司しかいません。ここでイエス様の起こされた奇跡は、『祭司が病気が完治したと思える人物に単に「清くなった」と宣言する』だけでなかったのです。イエス様は、口先だけではなく、本当に病気を完治させる方でした。つまりこの事件は「神の呪いを解放する」権威をイエス様が持っておられたことの証明だったのです。
●百人隊長はローマ人で、改宗していない異教徒でしたが、ユダヤ人を支配する側でした。ところが逆に百人隊長はイエス様を直接謁見することも懇願することもできない存在として取り扱っているのです。ルカの福音書では「この人には資格がある」とユダヤ人の長老たちがわざわざ口添えしているにも拘わらず、本人は資格がないと申し出るのです。さらに驚いたことに、イエス様がわざわざ彼の所に出向いて行ったのにも関わらず、直接対面することをせず、従者に言葉を託すだけです。こうした一連の行為は、下士官が将軍や皇帝に申し出をするときの行為そのものです。つまり百人隊長は、イエス様を「御国の将軍であり国王」としての権威を持つ方として迎え入れたのです。さらに百人隊長が従者に託した「お言葉をください。(8:8)」の言葉は注目に値します。「イエス様の言葉にこそ神の権威が備わっている」と彼は信じていたのです。
●大勢の人を次々に癒される姿を見て、『これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』との一文を挙げ、マタイは、イエス様こそは、預言を実現できる権威を持った受難のメシヤとして紹介したかったのです。
●ガリラヤ湖の嵐の事件は、イエス様が自然界をも制する権威を持つことをあらわしたものです。同時にイエス様のお思いの中に「十字架の任務完結までは、父なる神が自分のこの世での命を取り去るはずがない」という強い確信をもっておられた様子も描写しています。ルカの福音書8章-2を参照
●本章最後の奇跡は悪霊憑きの男性の癒しです。悪魔や悪霊の存在を認めたうえで、イエス様がこれらの霊的存在に対しても命じられる権威を持つメシヤとしての証明をされたものです。