最新情報

マタイの福音書7章

マタイの福音書7章
=本章の内容=

山上の説教:神の国の住人の生き方➎裁くな➏求めよ➐狭い門から入れ➑まとめ

=ポイント聖句=

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。(7:28・29)

=黙想の記録=

●山上の説教の最終章です。本章も神の国の住人の生き方が語られています。「さばいてはいけません。」のさばくは、英語では「judge」ギリシャ語では「kurino(クリノ)」で、さばく以外に「判断する、非難する、支配し、統治する、戦う、論争する、訴訟を起こす」の意味があります。現代語で「マウントをとる」と言い換えた方が分かりやすいかもしれません。要は「自分の主張を押し通したり、相手を過小評価したりしてその場を支配する」ことです。その場での「山のてっぺんにいたい」のです。こういう人々の特徴は、元々「承認欲求」が強く、本心では「自画自賛」したい思いにいつでも駆られているのです。残念ながらこうした場面を、基督者対未信者、基督者どうし間でもよく見かけることがあります。この場合、「キリスト教に関する知識がある。」「人生を俯瞰してみることができる」「他者と異なる能力を有する」などが動機となります。こういう人々への処方箋は、「打算的な交流の仕方をしない」、「他者の幸せの為に行動する」、「他者を笑顔にしてあげる」です。これは職場、地域社会、あるいは家族親族にも適応されなければなりません。
●「求めなさい。」の要求がかなえられるのは「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」が実行できる場合のみです。「他者の幸福を優先する」ことなく、「自分の幸せを優先する」ようならば願いは叶えられません。「快適な生活」より「他者を幸せにできる生活」の方がどれだけ心豊かになれることでしょうか。
●「狭い門からはいりなさい。」とは「競争原理の中でいつも優位であるために努力せよ」と言う意味ではありません。「滅び」は「地獄」だけを意味していません。「平安の無い世界」「安息が感じられない世界」とも言えるでしょう。滅びに至る「道」は広いということですが、広い道なら大勢の人が行きかう賑やかさがあります。大きなこの世の潮流に身を任せていた方が気が楽なのです。何もこれは未信者向けの言葉ではなく、基督者も大勢が賛同しているからと言うだけで、御心より、大勢の進む方向を選んでいる場合が多いのです。教会の中に「反対者」がいることの方がかえって健全なのです。意見を擦り合わせようとせず、強引に進もうとする風潮が起きていたとすれば、教会として大変危険な状況になっているのです。偽教師は当初「羊のなり」をして近づいてきますが、自分に取り込むことができたと分かるや否や、豹変し、あたかも「自分の従僕」のような取り扱いをするようになるのです。
●山上の説教のまとめは、「今私は神の国の住人となっている」のかどうかは何によって判断できるかという問いかけです。簡潔に言うなら、御霊の実つまり「無言の言葉」をどれだけ実らせたいるかどうかです。私達はとかく「派手なパフォーマンス」や「巧みな言葉」によって人間を評価しがちです。しかし、本物の基督者は「無言の言葉」を一杯蓄えている人で、さらに多くの人々の「プラットフォーム」となっている人のことを言います。
●「愚か者の歌」という子供讃美歌はこの個所から作られた物です。未信者にとっては、とても分かりやすい人生訓です。でもこれは単なる人生訓ではなく、山上の説教のまとめであり今後のユダヤ人に訪れる大患難への預言に通じる譬え話なのです。つまり、律法学者の見せかけの生き方は砂上の楼閣で、これに倣う者も同様です。今は隆盛を極めているかもしれませんが、ローマ侵攻によりユダヤは跡形もなくなります。律法学者の生活の場がなくなってしまうのです。しかし、キリストの救いを得た神の国の住人は、目に見える住居が失われるようなことがあっても、神の国の住人として生き抜くことができるのです。