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マタイの福音書6章

マタイの福音書6章
=本章の内容=

山上の説教:神の国の住人の生き方➊善行とは➋祈りとは➌断食とは➍生活についての思い煩いからの解放

=ポイント聖句=

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(6:26)

=黙想の記録=

●山上の説教の第二弾です。神の国の住人がこの世を去るまでいかに生きるべきかを、反面教師である律法学者の生活振りと対照させながら語っています。
●律法学者の善行は「ラッパを吹くような」自己顕示欲から来ているものです。ここでのポイントは、「善行は自分の栄誉を高める為のものではなく、他者が喜ぶ為のもの。それ故に仕える姿勢がなければできないこと」なのです。
●律法学者の祈りはやはり自己顕示欲の為です。人前で個人的に祈ることを神様がどれほど望んでおられるかをここから感じ取ることができます。ここに書かれている祈りの言葉は他宗教の様な「お題目」ではありません。祈りの模範例です。
●「父よ」の呼びかけは驚愕に値しました。当時ユダヤ人の目に「神は畏怖すべき存在」であっても「保護者」とは映っていなかったのです。イエス様は十字架上で「我が神、我が神」と叫ばれた以外全て「父なる神」と呼びかけています。「父なる神」という呼び方は神の御子であるからイエス様だけが使える言葉ではないのです。イエス様を救い主と信じる者ならだれもが、この呼び名を仕えるのです。この「父なる神」という呼称がどれだけ基督者を慰めまた励ましてきたことでしょうか。ギリシャの神々の様に支配者として君臨する神ではなく我々をいつも見守ってくださる「父」なのです。
●「御名があがめられますように」とは、私たちはまず礼拝者であることを確認させるものです。神様は私たちの奴隷ではないのです。
●「御国が来ますように」とは、私たちがこの世に属さないことを確認させ合わせて私の魂を聖霊なる神様が支配してくださるようにと言う意味です。
●「みこころ・・・」は、私たちの人生は父なる神様の御心を遂行するためにあることを確認させるものです。
●「わたしたちの日ごとの糧を…」とは、日々に神様の保護の力が私たちを囲っていることを認めさせるものです。
●「試みにあわせないで・・・」一見すると「試練を与えないでください」とか「誘惑に合わせないでください」あるいは「不合格が目に見えている試験をしないでください」との意味に取れます。イエス様はゲッセマネの園で「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(26:41)」と言われましたが、ここで使われている「陥る」はギリシャ語では「εἰσέρχομαι(アイセエハマイ)」で、日本語では「入ってくる、浮かび上がる」という訳のほかに「人の体を占有する」という意味もあります。さらにこの個所の直後に「悪からお救いください」とセットであるわけですから、平易な言い方に直せば、「誘惑によって悪魔が私の体にのさばらないように(占有しないように)してください」となります。さらに突っ込んだ言い方になりますが「悪魔が人を誘惑することは当然起こりうること。しかしいつまでも悪魔の自由にさせないこと。」と、とらえるができます。ではなぜ神様は悪魔に人を誘惑させることをお許しになったのでしょうか。それは「悪魔の誘惑」は私たちの信仰生活にとって「不要な肉の欲を指摘し削ぎ落す」のに不可欠なプロセスだからです(マタイ4章)。当時の宗教家たちは一般のユダヤ人が誘惑によって犯した罪を断罪するだけでした。ですから公に断罪されるような罪を犯さなければそれでよしとし心の内面までは関心がなかったのです。
●ルカではこの祈りの最後に「赦し」の言葉が続きますが、マタイは「赦し」を別項目として取り上げています。この個所は、自分こそは霊的弱者であり他者に迷惑をかける存在でもあることを認めさせ、聖霊なる神様の助けを頂くようにとの勧めです。
●律法学者のする断食はやはり自己顕示欲の為に行う者です。断食はハンガーストライキのことではありません。または仏教でいう所の「荒行」ではないのです。儀式ではなく食する時間も忘れて打ち込む行動のことです。
●「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。」から始まる説教は「思い煩う生活から解放されなさい」がテーマです。衣食が足りていればそれだけで基督者は満足できるはずです。それをこの世のスケールを持ち出すからそこに思い煩いが生じると説明しています。この世のスケールで見るから誘惑が起きてくるのです。神様の目でこの世の全ての事象を俯瞰できるのなら思い煩いは解消できるはずです。
●ここで言う「空の鳥」とは「カラス」のこと。「野のゆり」とはアネモネのことでどこにでも目を出す雑草のことです。さらに、毒性があるために食することができないどころか、燃やして処理しても煙りにも毒性があるという厄介極まりない植物なのです。このように「忌み嫌われ役に立たない者であっても父なる様は無関心ではいられない方である」ことをイエス様は教えておられるのです。