マタイの福音書5章
マタイの福音書5章
=本章の内容=
山上の説教神の国の➊住人の特質➋住民の使命➌新しい律法
=ポイント聖句=5:48だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい(5:48)
=黙想の記録=●「山上の垂訓」は、ルカの福音書の場合、「時系列に沿って」説教がまとめられているため、6章・11章・12章・13章に分散して記録してあります。ところがマタイの福音書の場合は、5・6・7章に「連続して」まとめていいます。これはユダヤ人を意識しての配列方法です。
●ユダヤ教の聖書における最初の「モーセ五書」を「トーラー」と言います。さらにモーセが神から授けられた法で、成文化されずに口伝で伝えられたものがあり、前5世紀から紀元2世紀までの律法の解釈と口伝を文書にまとめたのが「ミシュナ」です。このミシュナをラビが解釈したものが「ゲマラ」です。そして、「ミシュナ」と「ゲマラ」から、時代時代に即した生活規範・信仰の基礎を文書化したものが「タルムード」です。ところがこれらの膨大な文書の特徴には「民族的排他性」と「独善的選民思想」が含まれた問題箇所があり、現代イスラエルに至るまで大きな政治問題の種ともなっています。
●前5世紀から後7世紀にかけてユダヤ教の「ラビ」は律法学者の称号として使われる言葉でした。ですが、エルサレムでの宗教施設数での少ない要職に付くことができなければ、律法学者として生計を立てるしか方法がありません。当時、シナゴーグで民衆や富者の子弟に教えても、あまり大した実入りがありません。そこで、彼らは、弁護士や司法書士の様に、民事の仲介者として、謝礼を取る道をとっていたのです。ですから凡そ「教育」に熱意を持つ人物など希少価値だったのです。ですから、ユダヤ人とって山上の説教は、今までのラビが持っていなかった資質、「教育熱」が感じ取れていたのでしょう。さらに「誰にでも理解できる聖書の解釈」は民衆の心を鷲掴みにしてしまったのです。
●本章は次の三部作になっています。どれも神の国の住人にしか当てはまりません。
①1~11節では「神の国の住人の特質」が「~は幸いです」で語られています。
②13~16節は「神の国の住民の使命」が「地の塩」「世(界)の光」として語られています。
③17~48節は「神の国の新しい律法」について「律法学者」が解く律法と対照させて書かれています。
●さらに詳しく黙想してみましょう。
①の説教はこの世の価値観とは真逆のことが「幸せ」と定義されています。競争社会の勝ち組からすれば、これらの内容は「負け犬の為の単なる慰め」あるいは「思い込み」と思われる物ばかりです。しかし、生き残れる勝ち組はほんのわずかで不確実です。さらに「いつ転落するかもしれない」という恐れを抱いているのもまた事実です。この世の中のスケールで生きると言うことは、ハンドルの無い自動車、コンパスの無い船舶と同様なのです。
※この部分は現在さらに黙想を続けているところです。後日追記していきます。
②の説教は神の国の住民の特質が周囲の人々にもたらす影響力のことです。
・「地の塩」とは死海の岩塩のことです。塩分濃度が3%しかない海水に対して、死海の塩分濃度は30%です。さらに死海に含まれているマグネシウム、カルシウム、ナトリウムといった天然ミネラルが一般の海水の約30倍含まれているとも言われています。そのため塩水に含まれる、天然ミネラルや塩分の持つ殺菌・腐敗防止効果によって、皮膚病や皮膚炎、リウマチなどに良い効果をもたらすことが研究されています。約4000年も前から死海の塩水は生命維持と癒しの源として、現地の人々の生活を常に支え愛されてきたのです。これを踏まえて「地の塩」を考えると、塩気は私達の信仰の特質である「肉欲からの聖化」「永遠のいのち」を表現したものとは言えないでしょうか。また「人々に踏みつけられるだけです」の表現から塩気は「他者への影響力」を現わしています。逆に言えば、この特質を取得することなしに周囲の人への影響力はないと言えるのです。残念ながら塩気は潮解作用(空気中の水分に溶ける現象)によって失われていくものです。特に死海の岩塩は潮解が起きやすいものです。私達の信仰も悪魔の支配する世にあってはこの世に同化(潮解)しやすいものです。この為、信仰も「塩気を取り戻す」必然性があるのです。潮解した塩を元に戻すには「火で加熱する」ことが一般的な方法です。イエス様ご自身も「塩気を取り戻す方法」を「火によって(マルコ9:49)」と説明されています。基督者にとっての「火」とは父なる神様が絶妙なタイミングで予め用意されている人生の「試練(ペテロ第一1:7)」のことを指しています。そのタイミングを私たちは予知できません。もっと突っ込んだ言い方をすれば「試練に合うことなしに塩気は付かない」のです。試練は個人単位だけではなく教会単位でも与えられるものです。
・「世の光」の「光」とはもともと油を使った燭台(ランプ)を使った比喩です。燭台に注がれた油に燈芯を入れ、その燈芯に火を付けてあかりとするものです。燈芯がなければ明かりとなりません。この燈芯とは「私たち与えられたそれぞれの信仰(の確信)」のことです。また油は「聖霊によって与えられる新しい生命力」のことです。聖霊の力は信仰生活のあらゆる場面を照らしています(現わされます)。しかし、油も劣化することがあります。劣化した油は光の勢いが失われていきます。私達の信仰も人間関係を含む様々な環境・状況によって不純物が混じって劣化していきます。ですから日々「聖霊による再生と刷新の洗い(テトス3:5)」が必要です。再生と刷新とは日々の神様との交わり(=デボーション)(ルカ24:32)であり、時には試練(ペテロ第一4:12~14)のことを指しています。世の光は手元を強く照らすことができれば、遠くまで照らすことができるのです。自分にうちに潜む悪習慣を照らしそれを処置することなしに、他者の光とはなれないのです。また、身近な家族に光をもたらせなければ不特定多数の人々に光が届くはずがないのです。その状態では升で灯りを隠す様なものなのです。「良い行い」とは、まず自分を強く照らすことなしには始まらないのです。他者のことをとやかく言う前に自分を変えて行く事をここで語っているのです。
③「人を殺してはならない」から始まるトーラーやミシュナ―は、本来人を保護し、人を活かす為であったものが、当時は、他人を窮地に追い込むことにしか使われていなかったのです。イエス様の説教も「新しい締め付け」のように感じるのなら、それは新しいいのちが宿っていない証拠です。イエス様が示された律法の解釈には、ここまでできれば、合格という限界を設けていません。限界のある愛は神様の愛ではないのと同様です。私達基督者はこの世を去る時まで、イエス様の身丈にまで成長できるよう努力すべきです。