マタイの福音書4章

マタイの福音書4章
=本章の内容=

➊悪魔の試み➋弟子の召命

=ポイント聖句=

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。(4:1)

=黙想の記録=

●1節で使われている「試み」はギリシャ語でパイラッゾ、英語ではbe tenptedで「誘惑」を意味しています。新改訳では試み、共同訳では誘惑ですが、説教のタイトルは「悪魔の誘惑」が多く、「悪魔の試練」はほぼ見つかりません。サタンが関与し、神様の御心に反する様に貶めることを「誘惑」と呼び、基督者を真に用いるための訓練を「試練」と呼ぶことが多い様です。
●「あなたが神の子なら」という言葉で執拗に語り掛ける悪魔の狙いは何でしょう。サタンはアダムの時から人間に関わってきましたから「人間の弱点」を知り尽くしています。「人の子」となられたイエス様に対し「人間の弱点」を用いて「神の御心に反する」反応を引き出すことで、イエス様の「神の子=メシヤ」としての資質を貶めることが目的でした。

●「悪魔の試み」についてマタイは3つのパートに分けて書いています。第一は「石ころをパンに」、第二は「国々の権力と栄光を」、第三は「飛び降りろ」というものでした。総じて言えば「悪魔の試み」の矛先は、全てイエス様の公生涯の目的を問うもの、つまり「神の子であることの証明」にありました。(以下ルカ4章の黙想と同じです)
●第一の「石ころをパンに」は「創造の目的」つまり「神の創造の御業の意義」への挑戦です。ここでイエス様が「簡単なことだ。石よパンになれ。」と命じればその通りになったことでしょう。しかし、これでは自然の法則に反したことを自分の為にしたことになります。人含むすべての創造物も自然の法則も神様の気まぐれの為に造られた訳ではありません。私たち「人」が「自然の摂理」から、神を知ることを願って造られたもので、人間には脅威である動物でさへ、意味があって造られたのです。ましてや「人」は偶然や気まぐれの産物ではないのです。「必ずそれぞれ生きる意味を持っている」のです。「神の口から出る一つ一つのことば」と答えておられますが、この言葉には「秩序を重視する神」の神性が伺えます。そして、己の欲望の実現の為ではなく、従順に神の御心を遂行することが神の子としての義務であることを主張なさっているのです。サタンの様に自分の為に世界を支配しようとする意志は微塵もないのです。
●第二の「国々の権力と栄光を」は「地上でのイエス様の使命」に対する挑戦です。イエス様は自ら言われた様に「人の子は仕えられるためではなく、仕えるため」(マタイ20:28)に生涯を費やされた方です。これが神様のご性質でもあるのです。人格の極めて低いギリシャの神々とはくらべ物にならないのです。「人を愛する」とは「支配する」ことではなく「仕える」ことであると定義されたイエス様は同時に「父なる神にのみ仕える」ことが人間に課せられた使命でもあると仰ったのです。
●第三は「飛び降りろ」は、「十字架による救いの御業」への挑戦です。こんな場所で命を落とすことは神様のご計画を無視する行為です。悪魔は全人類の救いの計画を台無しにしようとしたのです。十字架は贖罪の為の唯一の方法でそれ以外にはないのです。こうしてこの「悪魔の試み」は全て失敗に終わります。

●大事なポイントがあります。それはポイント聖句にあげた箇所です。「悪魔の試みを受けるため」の後に「御霊に導かれて」とあります。荒野には悪魔が待ち受けています。そこに「導いた」とあるところから、この試みは「人の子」に必ず訪れる瞬間、通過しなければならない人生のポイントであると言えるのです。これはイエス様だけでなく「全ての人」が通過しなければならない通過点ともいえるのです。

●ルカ22:31では「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」とあります。ペテロはこの悪魔の誘惑に完敗してしまうのです。しかし、ペテロはそのままイエス様から突き放され、捨て置かれていたでしょうか。私たちはその後のペテロに対する取り扱いからイエス様(父なる神様)のお気持ちを察することができるのです。ペテロの経験はペテロだけの特異経験ではありません。「全ての人が受けなければならない経験」とも言えるのです。

●では私たちにとって「悪魔の誘惑=試み」にどんな目的があるというのでしょうか。端的に言えば、「悪魔の誘惑」は、私たちの信仰生活にとって「不要な肉の欲を指摘し削ぎ落す」のに不可欠なプロセスなのです。ルカの福音書の放蕩息子を思い出してください。彼は父のふところから飛び出して、誘惑に身を任せ、放蕩な生活をくぐってきたのです。しかし彼は誘惑に身を任せた結果つまり悪魔に完敗してしまったことを知った時から、本来あるべき本当の姿(父と一緒に暮らす)に方向を向きなおすことができたのです。悪魔の試み=誘惑が、いかに熾烈を極めたものであっても、神様は私たちを決して「ふるい」から振るい落とす方でではありません。あなたはそれを信じることができますか。

●本章後半は主要な弟子たちの召命の記録となっています。イエス様は活動拠点をエルサレムではなくカペナウムに置かれました。マタイはこのカペナウムを「異邦人のガリラヤ」とイザヤ書を引照して表現しています。このカペナウムにはローマ軍の駐屯地があり、確かに異邦人の往来のあるイスラエル北部の大都市です。エルサレムではヘロデが建立した神殿での宗教活動が中心でした。様々な捕囚経験を経て、神殿礼拝ができなくなると、各地にシナゴーグが建築されていきます。そして、その多くはガリラヤ地区に集中していました。政治色の強いサドカイ派が実質支配するエルサレムでの宣教は、困難を極めることになったでしょう。これがここカペナウムを選んだ理由と思われます。