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マタイの福音書3章

マタイの福音書3章
=本章の内容=

➊バプテスマのヨハネとイエス様

=ポイント聖句=

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(3:11)

=黙想の記録=

●バプテスマのヨハネの父親はアビやの組の祭司ザカリア、母はアロンの直系の人エリサベツです。名門の生まれ、信仰に熱い家庭で育ったヨハネがなぜ主の宮で仕えず、荒野で説教するようになったのでしょうか。何も起こらなければ、ヨハネも祭司職を継いでいたものと思われます。いくつかの推測が立てられます。「第一に当時の祭司職がユダヤ人の総意で選ばれていたのではなく、ローマ皇帝によって任命されていたので、ザカリヤの様に実直な祭司より政治色の強い人物の方が珍重されていたから、すでに祭司職にはなることは困難であった。第二は、ザカリヤの神殿での天使との遭遇やエリサベツの高齢出産における特異体験によって、与えられたヨセフの使命を遂行させる為に教育されたから。」いずれにしてもヨセフ自らの意志で、何一つ不自由のない生活ではなく、古の預言者の様な粗末な生活を選んだわけです。仮に、父と同じ祭司職を選んだとすれば、彼の火を吐くようなメッセージは生まれなかったことでしょう。ここからも理解できるように、主の働き人が豪邸に住み、高級ブランド品を身にまとい、高級外車を乗り回し、沢山の預金など持っているはずがないのです。このような生活からは、人々を悔い改めに導けるようなメッセージは生まれるはずがありません。
●バプテスマのヨハネのメッセージは「悔い改め」です。すなわち生活の方向転換を図ること。もっと突っ込んだ言い方をすれば、「この世のスケールで人生を送らない」というものです。ヨハネが施すバプテスマは「水のバプテスマ」です。これは「欲望に振り回された古い自分と決別し、あらたな生き方を始めさせる」決意表明でした。バプテスマのヨハネのこの活動は、腐敗しきった当時の宗教界に光明を抱かせるものであったようです。ユダヤの各地そしてエルサレムからも。辺鄙な場所ヨルダン川まで人々は押し寄せてきました。この勢いに後れを取るまいと、パリサイ人やサドカイ人もやってくるのですが、ヨハネは彼らの下心をとっくの昔に見抜いています。彼らが欲しいのは、心の一新ではなく、ヨハネの人気にあやかりたいだけなのです。「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。 」とのメッセージは1章とリンクしています。生粋のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、ユダヤ教の高等教育を受けたからでもありません。金銭に無欲で、清貧に甘んじることができなければ、ヨハネが認める人物像にはなれないのです。名門を笠に着て生きているようなヨハネのこの一喝に彼らは次第にヨハネから遠く離れていくのです。
●ポイント聖句にある「聖霊と火のバプテスマ」に関しては大きな解釈の相違がありますが、私個人としては次の様に受け止めています。「聖霊と火のバプテスマ」は本来「聖霊のバプテスマ」と「火のバプテスマ」と訳すべきです。しかもこれは聖霊なる神様のこの地での使命を表現したものです。つまり、み言葉を教え、祈りを促す基督者の養育係と言う面と、様々な火の様な試練に導くことにより、基督者や教会を聖化していく訓練コーチとしての面です。3章にあるようにイエス様を荒野での試練に導いたのは、他ならぬ聖霊なる神様です。前述しましたが、聖霊なる神様は「もうひとりの助け主」であり、ご自分のご性格に倣い「仕える者の姿」を基督者に反映させる為においでになった訳で、ご自身が主人公になることは、このご性質上決してあり得ないのです。それは、イエス様が、この地上生活を全て父なる神様に栄光を帰するために送られたのと同様です。また、「聖霊よ」と、ご自身が祈りの対象になることは聖霊なる神様の望むところではありません。

🔴聖霊に満たされる状態とは「強い刺激で感情を揺り動かすだけの特異体験」のことではありません。平易な言い方をすれば「何らかの強い刺激を与えることでトランス状態なること」では決してありえません。聖霊に満たされる条件とは「①肉欲からの決別を実行すること②静かな祈りと聖書の拝読を通し日々に神様と出会うこと③燃え盛る火に投げ込まれるような試練から回避しようとせず神様の御心が成就するまで忍耐すること」なのです。人目にはわかりずらいとても地味なものともいえます。