メシヤであることをテストした盲人

2024年7月4日

《なるほどThe Bible》2022/12/26
=メシヤであることをテストした盲人=
【参照聖句】彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。・・イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。(マルコ10:47,51~52)
そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。(イザヤ35:5)

●マルコの福音書10章は「神の国に入るにはどんな条件が必要か」との主題を問う物語が列記されている箇所です。ここに登場する盲人は最後に「あなたの信仰があなたを救いました=神の国に入りました」とイエス様から宣言されました。「癒されました」ではないのです。明らかに「救い」が与えられたのです。ここからも理解できる様にこの物語は単なる「癒しの奇跡」を紹介するだけの箇所ではないのです。ではここでマルコは何を伝えたかったのでしょう。先に要約してしまえば「霊の目が開かれていることが救いの条件=神の国に入れる条件」であるということなのです。
●盲人はエリコの住人です。エリコは温暖なところで冬屋外で過ごしても寒さが気になりません。一定年齢になると家から追い出された障害者にとってはとても生き易い場所なのです。さらにエリコは祭司などが住む文教地域であり日常会話にも聖書がでてくるほどなのです。そこで盲人は日頃から聖書に親しんでいたと言えるのです。イザヤ書35章は来るべきメシアに関する預言の部分です。ですからこの盲人はこのイザヤ書から「盲人の目を癒す人物こそメシアである」と悟っていたはずなのです。彼が「ダビデの子」と叫んだ背景にはこの「メシア信仰」が芽生えていたからなのです。この盲人にとって「目が癒される」ことは二次的なことでした。つまり癒されるためだけでイエス様の元に飛び込んだのではないのです。「イエス様が真のメシアであることを確かめるために自らの体を差し出す」ために出かけたと言えるのです。つまりこの人は「メシヤであることをテストした盲人」と言えるのです。