マルコの福音書10章

マルコの福音書10章
=本章の内容=

❶モーセと離婚状❷子供たちへの祝福➌ラクダが針の穴を❹何もかも捨てて❺受難のメシヤ❻ヤコブとヨハネの願い❼盲人バルテマイの癒し

=ポイント聖句=

彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。

=黙想の記録=

●マタイ・マルコ・ルカの三福音書の網羅されている話は②③④⑤⑦。後期ユダヤ伝道(ペレヤ伝道)と呼ばれるときの話ばかりです。十二弟子以外の個人名が出てくるのはマルコの福音書では少ないなか、その希少な一人がバルテマイです。バルテマイはエリコ近郊に住んでいました。エリコは海抜マイナス250mの低地にある。「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、冬でも10℃を下回らない温暖な場所なので、家を出され身体障害者が野宿しても凍えることはないのです。さらにエリコは、祭司などが居を構える文教地域でもあったため、門前の小僧の様に、日常的に聖書が語られていたと想像できます。エリコは住みよい場所だけではなく、盲人の信仰を醸成していた場所とは言えないでしょうか。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」
●当時、ダビデ契約の政治色の強いメシヤとして「ダビデの子」と使われることがあっても、「救済の神」としての認識はほぼありませんでした。バルテマイは、律法学者が正典と認めていないイザヤ書にも関心があったように思えるのです。なぜなら、イザヤ書には、盲人を癒すメシヤの出現が、預言されていたのです。「上着を脱ぎ捨て」とは、彼の仕事着(貧しい身なり)を捨てることも意味ているのではないでしょうか。彼はイエス様の後をついて行くことを許された希少な障害者だった一人だったのです。
●「障害者だから、健常者より情報量は少なくなる」というのは間違えた考えです。五感に支障があっても、霊による信仰心がそれを補うように研ぎ澄まされているのです。み言葉を学ぶうえでの洞察力において、祈りの力において、聖霊による人格形成の点で、健常者以上の力を発揮しているのです。そしてこうした兄弟姉妹によって、あなたの信仰が支えられていると言っても過言ではないのです。