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マルコの福音書9章

マルコの福音書9章
=本章の内容=

❶変貌の山❷エリヤは来た➌口をきけなくする霊❹受難のメシヤが分からない❺誰が偉いか❻つまずきを与えるような者

=ポイント聖句=

実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。(9:6~7)

=黙想の記録=

●変貌の山で、イエス様以外の二人がなぜモーセとエリヤだと分かったのでしょう。似顔絵もないのです。活躍した際の風貌なのでしょうか。するとモーセはかなりの老人で、エリヤは壮年です。弟子たちが彼らを認識できたのにはいくつかの説があるようです。ところでこの場所でエリヤを目撃した弟子たちは、エリヤがもうこの世の人ではないことを悟ったはずです。ところが、律法学者に口の軽い弟子たちが、自慢したいがために秘密を漏らしてしまったところ、「エリヤの目撃はお前らの単なる幻想」と否定されたのではないでしょうか。
●律法学者は、11節で「マラキ4:5・6」を持ち出して、エリヤの再来を質問しているのですが、「エリヤ再来の気配はない。したがってメシヤも来ていない。つまりイエス様はメシヤではない。」と主張したかったのではないでしょうか。その後、イエス様は「マラキ書の預言が、バプテスマのヨハネの出現で成就していること、したがってメシヤは来ていること説明されています。ところが、メシヤはこの世で受難し、自らを犠牲にして罪を贖うという預言については、旧約聖書から読み取ろうともしません。ユダヤ王国復興、世界の覇者になる事だけを夢見ているのです。自分にとって都合のいいことだけ信じる人間の性でしょうか。
●自分にとって都合のいいことになる場合は徹底的に信じ様とするのですが、都合の悪いこと・予定通りにならないことには徹底的に目を瞑ろうとするのが人間です。「ゆだねます」と言っておきながら「自己都合によって道を進んで行く」状態もそうです。一度自分を十字架に付けたはずなのに、平気で降りて来てしまっているのです。この状態を基督者の場合は古い古き人の性質と呼ぶます。ではこの古き人の性質を立ち上がらせないためには何をしたらいいのでしょうか。