マルコの福音書7章
マルコの福音書6章
=本章の内容=
❶手洗いの儀式(伝承)❷人を汚すもの➌ギリシャ人の娘の癒し❹聾唖者の癒し
=ポイント聖句=あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。 (7:8)
=黙想の記録=●ここで「手を洗う」という行為は、健康衛生の為ではなく儀式の為です。当時、手を洗わずに食事をすることは、汚れや悪霊を体内に取り入れることとなるとされていました。ところが、この言い伝えは祭司職に当てはまっても、それ以外の人々には適応されませんでした。こうした言い伝えは、捕囚以降のユダヤ教指導者が作り上げていったもので、選民意識を醸成する為であったり、林立してきたユダヤ教の他宗派との違いを表現する為のパホーマンスとも言えるものだったのです。
●「コルバン」は献納物のことです。当時、自分の所有物をコルバンと宣言したなら、親がどんな状況下にあっても、それを使うことができませんでしたが、本人が必要なら、途中でその約束を反故することができました。とても虫の良いしきたりでした。
●イエス様はこの伝承に対し、「そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」と、とても愉快な言葉を使って説明しています。「体に良くない物であれば腹痛を起こし、下痢になって出て行ってしまう。」のです。続いて、イエス様は「誰の心にも始めからある心の汚物」リストを13個もあげています。
●残念なことですがこの「しきたり作り」は現在のプロテスタント教会にも見られる現象です。「ウッソー」と思われるかもしれませんが、以下の様に規定しているグループが存在しています。「女性のスカートはひざ下10cmまでとする。女性の髪の毛はショートではいけない。教会堂のカーテンは黒色を使う。」など、聖書のどこにも書いていないことをしきたりとするのです。
●さらに発展させると、「当教会で述べている聖書解釈以外は正式な物ではない(『正確ではない』と言うのならまだ理解できますが)」とか「この儀式を行わない教会以外はすべて間違えている」とか。私にはこれらが、自分が属する教会以外の教会への「単なる言いがかり」の様に思えてなりません。所謂「教会の差別化」を図かり、優位にあると見せかけているとは思えませんか。「当店にはエアコンが完備されています」とか「当店には空気清浄機が完備されています」という類と全く変わりがありません。「他者を認めてこそ自分がある」ことぐらい基督者でなくても知っていることなのですが。
●兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。(ローマ12:10) の聖句はいったいどこに飛んで行ってしまったのでしょう。