マルコの福音書5章

マルコの福音書5章
=本章の内容=

❶ゲラサの悪霊❷ヤイロの娘のいやし➌長血をわずらっている女のいやし

=ポイント聖句=

それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(5:18・19)

=黙想の記録=

●恥ずかしい話ですが、40代前半まで、ここに登場する悪霊に憑りつかれている男性の状態や、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまったこの異常事態ばかり目が留まり、この18・19節の存在に全く関心がありませんでした。「こうした劇的な変化を期待できるのがこのキリスト教。すごいなあ。自分もこんな奇跡してみたいなあ。」という感じです。さらに「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で」という聖句から背中を押されている気がして「どんなに反対されたって宣教師になってやる」という飛んでもない野心に憑りつかれているのでした。
●私は高校2年でバプテスマ(浸礼)を受けました。その直後実兄は家を飛び出して行方知れず、さらに父の会社が突然の不景気の嵐に巻き込まれ倒産してしまいます。長女の姉は父の会社で働いていたお婿さんともども路頭に血迷うようになり、次女の姉も父母も世間も認められない婚姻関係を始めてしまいました。家族を繋ぎとめる絆のもろさを否応なしに味わされました。弁護士志望で受験勉強していた私は大学進学を断念し、両親の助けになれば学校事務員として働きます。もっと自由な仕事をしたいとの欲求から、公務員を辞め、学習塾経営を始めます。ところが、しばらくすると、学習塾事業で私より先に成功し、父母の面倒を見ていた実兄が、突然心筋梗塞で他界し、学習塾経営を始めたばかりの20代後半の私に父母の面倒という御鉢が渡されてきました。実兄の他界直後、私の長男が重度の心身障害者として生まれました。この怒涛の時期に、米国宣教師夫妻や同じ集会(教会)の兄弟姉妹に良くしていただきましたが、我が家の窮状を救うには手が短かったのです。「海外宣教の希望」はおろか「生きる望み」さへ奪っていく神様を呪い七年間も「人でなし」になり、自分の家庭も顧みずにいました。悪霊に憑かれた男はまさに自分でした。ところが神様の取り扱かわれがあり(それもかなりの荒療治)、私もすっかり目を覚ますことができましたが、その時は裸同然、満身創痍の状況でした。そしてこの時初めて、5:18・19の聖句の持つ意味が分かったのです。
●悪霊に憑かれた男性の食事や自ら傷つけた体の世話をしたのは、間違いなく彼の家族です。周りの人は彼を見捨てても、家族は見限ることもなかったのです。この男性の奥様に至っては「早く離婚してしまえ。自業自得なんだよ。こんなやつ死んでしまえばいいんだ」と、言われもしたでしょうね。実は、私の家内もこの時期同様なことを日本にある同じグループの責任者や華々しい活躍をされていた方から、次々と浴びせかけられ、だいぶショックを受け傷ついてきたのです。無論そんな声が出ても当然のことをしてきたのですから仕方がありませんが。
●イエス様のこの言葉かけは、まず「人間らしく」生きることを願ったものでした。この家族を安堵させ、迷惑をかけてきた家族と一緒の生活をすることは、イエス様の弟子として様々なところへ付いていくことより「重要な任務」なのです。「伝道することだけが基督者の任務あるいは着地点ではない」のです。「家庭という社会の一隅を照らすこと」はイエス様の望みの一つなのです。